Nicotto Town


今年は感想を書く訓練なのだ


三輪の山里(その3)

さて、信濃守と文吾丸一行は、鏑川を渡ると山名宿へ続く街道を離れ、片岡丘陵を左手に臨んだ。
ここは山之内上杉家の重臣である、寺尾豊後守の治める地域である。
豊後守の名はその昔、関東管領上杉顕定に時代、上杉家の筆頭重臣の地位である、
家宰職を長尾忠景に与えることの、助言をした事でも知られている。
代々、豊後守の官途を頂き、鎌倉街道上道にあるこの地を安堵されていたのだ。

ここで、話を豊後守が登場する、逸話をお話ししよう。
この話の主役は、武田家四天王の内のお二方、内藤修理亮と馬場美濃守である。
修理亮は小荷駄奉行として登場するので、永禄12年以降の話であろう。
もしかしたら、三益峠の戦いの時の事であったのかもしれない。

寺尾豊後守は、修理亮の使い番に呼び出された。

「そちに頼みがある、これを美濃守殿へ届け、返書をもて」

「ははっ、畏まりましてござる」

上杉家重臣の家系を引く豊後守であるが、この時代になると上野国先方衆の一人にすぎなかった。
豊後守は、美濃守の陣馬へ駆け込んだ。

「ご注進、修理亮様より美濃守殿へこれを」

「ほほう、これを修理亮殿がのう」

「しばし待たれよ」

これより逸話の本題となるが、その内容は
『待つ宵に 更け行くかねの声聞けば あかぬ別れの 鳥はものかは』
と「待宵の小侍従」の歌を引用して、これに登場する動物の名を当てる問答であったらしい。
さほど時を開けることなく、返書をしたため豊後守に持たせた。
修理亮は、持ち帰った文をさっと広げ呟いた。

「さすがは、美濃守殿」

このように武士とは、たとい戦時であっても、雅な心を忘れずいたと言う話であった。

ここからは、したためられた和歌を見て行くことにしよう。
これは平家物語の一節に出てくるそうです。
ある時、御所で
「恋人の訪れを待つ夕べと、逢瀬を終えた恋人が帰る朝、どちらが趣深いでしょうか」
というお題に、女房は答えました。
これにより「待宵の小侍従」と呼ばれるようになったそうな。
件の歌を約してみると

『宵の内に思い人が聴く、更け行くかねの声の方が
 逢いて過ごす朝方の鳥の声よりも、遥かに切なくもの悲しい』

さらにある解説によると、この思い人の来ぬをすでに知れりという、儚い歌としている。

この歌にある「かねの声」は、「かりが音」とも詠まれ広く知られている。
それは「鐘の音」と「雁の鳴き声」を掛けたものらしい。
秋の夕暮れにお寺の鐘が響き、雁が泣きながら夕焼け空へ飛びだって行く、お決まりの場面が目に映る。
さて、美濃守殿の答えは、いかにてそうらうや。

「雁が音は、鶏鳴に勝れり」

このように答えたのではあるまいか、そして文武両道に勝れる美濃守を称えたに違いない。

話をもどそう、信濃守と文吾丸一行はさらに板鼻宿を過ぎ、烏川の渡瀬にたどり着いた。
ここは、宮谷戸と呼ばれている。

「ここを渡れば、白岩観音から三輪山へと、あとはすぐそこじゃ」

この物語は、まだ構想の段階であり、体よく語るのは難しい。
しかしながら、とにかく書いてみることが目的なので、形式に拘ることなく綴る事にする。

宮谷戸の対岸は、断崖となってこれを盾とし来るものを阻んでいた。
榛名山から烏川に流れ込む、そして出来た谷津がこの崖を刻み込み、そこから街道が続いていた。
断崖上のここは神戸(ごうど)と呼ばれ、戸榛名神社が鎮座しており、砦がこれを取り込んでいた。
ここに出てくる、宮谷戸は戸榛名神社(宮)が鎮座している谷津の戸(入口)を指して呼ばれていた。
戸榛名とは、古代榛名山全体が信仰の対象とされ、その聖なる山の入り口(戸)である。
またこの神社は、里にて手近に崇拝できる社としてまつられたに違いない。
そして、本体の榛名神社に並んで戸榛名神社も、この地を支配する長野信濃守によって庇護されている事は言うまでもない。
これより街道は坂が続き、いよいよ箕輪城を見下ろし、その城下へと足を進めた。

さて、ここは箕輪城支城の一つ、保土田城の一角に構えられた館内である。
上座にて扇子を構えて、仔細を述べる信濃守。

「しの、そなたには、文吾丸を預け置くことになるがのう」

「ここでは、心もとない故、箕輪城内に館を急がせてあるが」

「間に合わぬ故、しばしここで待たれよ」

「はい、お任せ下さいまし、楽しみにしております」

このようにして、実の伯母である金谷御前のもとで、暮らす事になった文吾丸であった。
ここで眺むるに、信濃守の持つ扇子には、桧扇が描かれており、長野家の家紋とされる。
桧扇は板で出来ており、扇子はこれを紙に置き換えたものである。
武家でありながら、この雅な紋を使用する逸話は、長野家の出自を語っている。

それは伊勢物語にある、在原業平を祖とする系図であり、歌や風流を伝える家としてある。
長野氏は、古代石上氏を祖とする説が一般的であり、在原業平説は伝承の域を出ない。
しかしこれは武家社会において、天皇家の後胤を名乗ることが、家格を高め尊重された時代であり、その所業であろう。
源平や藤原を祖とする系図は、そこかしこに蔓延っている中、在原姓にはいささか異質であると言わざるを得ない。

やがて時はたち、曲輪の内にある館の庭先で、稽古をつける男有り。

「若、構えをおろそかにしては成りませぬ」

「左京、これで良いか」

「いずれ、伊勢守の道場が出来た暁には、お連れしましょう」

「さよか、われは楽しみじゃ」

伊勢守とは、赤城山の麓にある上泉城主であり、長野家同心衆の一人、上泉伊勢守秀綱(後の信綱)である。
語らずとも知れた新陰流の開祖であるが、この時は居城とは別に箕輪城下に館を持ち、長野家に仕えていた。
天文10年北信濃では、武田、諏訪、村上の諸氏が連合して、小県へ軍勢を差し向けた。
この地は強国に挟まれながらも、関東管領を頼りにして踏みとどまっていた。
しかし今回の侵略は、過去に類を見ず大軍であったため、援軍を求める使者が到着した。

「なにとぞ、この海野とその一党をお救いくだされ」

つづく




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