Nicotto Town



イジメる

備忘録です。マジで読まなくていいっすw
では。












































































































て言っても、読みますよねw


こんなことをここになぜ書くのか、自分でも分かりません。通常の公開ブログならまだしも、読んでくれるメンバー限定のこんな微妙なネタを。なんなら嫌われそうな感じですが、たまにそいう状態に自分をさらしたくなるのは性なので、えっ!?っと思った方は、そっとご退出くださいませ。。。





「みんな仲良く」

なんと下らない言葉だろう。「みんな仲良く」というこの浅はかな考えが、この世の偏見と差別、無理解や不寛容というものの基底に流れる観念だと思っているから、私はこの表面上の触りのよい幼稚な言葉が嫌いだ。

現実的に考えれば誰だってわかるはず。みんな仲良くなんて出来るわけがない。気に食わないものは気に食わない。考え方や行動が気に食わないのはもちろん、ツラが気に食わない、声が気に食わない、喋り方が気に食わない、飯の喰い方が気に食わない。あげく雰囲気が気に食わない、服が気に食わないまで、そんなものは幾らでもあるし、意外と飯の喰い方が気に食わないなんていうのは、致命的だ。

「みんな仲良く」とは、この気に食わないという感覚を解消しろ、もしくは押さえ込め、ということになる。当然、みんな仲良くの人たちは「押さえ込め」とは言わない。話し合って分かり合い、仲良くなりましょう、と言う。


何を言っているのか。


話し合って仲良くなるなら、少々の諍いがあっても最初から話もできているし、結果として仲良くできている。気に食わないのは理屈としての問題もあるが、煎じ詰めれば、というか行きつく先は感覚的に気に食わないのだから、話し合ったところで仲良くなどできない。
極端な話かもしれないが、例えば落ち着いて理路整然と端的な議論をしたい人は、やたら感情的に金切り声を挙げて、デカい声でベラベラと具にもつかない話を早口でまくし立てて一人で納得しているような人間とは、仲良くできない。仕事だから業務を進めるために落としどころを見つける努力はするが、それは決して分かり合ったのでもなければ許容したのでもない。ビジネスとして、仕方がないから決着をつけたに過ぎない。日常生活でも何でも、それは同じことだ。そもそも人間として備わっているの文化が違うのだから、仲良くなど出来るはずがないし、する必要もない。別にその人と仲よくなどなれなくとも、なんら自分の生活に支障はないし、むしろ近づく方がよほど支障がある。

じゃあそういう人を、身の回りから排除すればいいのか? そのとおりだ。原則はそれでいい。しかし、実際にはイチイチ排除していたら成立しないのが現実の生活。先の仕事の話もそう、近所づきあいもそう、なにかのサークルの仲間内もそう。

話し合うのは理解し合うためではない。お互いが交じり合えないほど異なり、その上でそういう存在を横に置きつつ、しかし離れつつの共存をしていかなければならないことを共通認識として持ち、その利害の調整や最低限の共存をどう成立させていくのか。そういう相互理解と調整のために、時に忍耐を以て話し合いをしなければならない。まかり間違っても「みんな仲良く」するためではない。

もっと言えば、「みんな仲良く」というのは、言い換えれば他者の否定だと私は思っている。そういう他者の否定は、大切なもう一つのことを失わせることになる。それは、どんなに気に食わなくとも、どんなに交じり合えないほどに異なっていようと、同じ人間である以上は100%相違していることも実はない、ということの認識だ。ほんの僅かかもしれない。しかし共通する何か、共有できる何かが、幾ばくかであれ必ず存在する。その結節点を明らかにする、まさにその端緒が、分かり合えないという事実を明確にしつつも共存する落としどころを見つけていくプロセスの中にある。

良くも悪くも、人は一人であり、すべての他人は自分ではなく、融解して交じり合ったかのような100%の理解共存など99.99%できない。明確に理解し合うべきことはそこであり、その事実を冷静に受け止め、その雑多な世界の中で生きている、生きていくという認識と覚悟を持つことが、実は結果として偏見と差別、無理解や不寛容を排除する大切なプロセスのはずなのだ。

少々異なる話になってしまうが近似の例として。誤解を恐れずあえて言うと、例えば私は障害者は(すごく大雑把に一くくりにしてしまうが)社会のお荷物だと考えている。経済的、社会的に生産性は相対的に低く、にもかかわらず多かれ少なかれ人的にも金銭的にも社会資源は相対的に多く消費しないと生活は成り立たない。少なくともそういう視点で見れば、障害者はどう考えても社会のお荷物である、少なくともそういう側面が強くあることは否定のしようがない。じゃあ切り捨てていいのかと言えば、そんなことがあるわけがない。一人の人間として生まれた自己肯定の心を持ち、そこに喜びを感じる権利があるに決まっている。しかしそれは、哀れみや、ほどこしによるものであってはならない。そのためにこそ、障害者は社会のお荷物であるというリアルな地平に立つ意識を、心の何処かで一旦は皆が共有しなければならないと思う。その先にこそ、偽りのない共存があるはずだ。

所詮は誰もが他人、同じなわけがない。完全に分かり合えることなどないし、その必要もない。でも100%の齟齬もない。僅かかもしれないが、共有が出来ることだってあるんだ。それでいいじゃないか。そんな程度でいいじゃないか。その冷静さや、ほのかな温かさまで失ってしまう意識。それがイジメるということの原点だと私は思っている。「みんな仲良く」という人道的な振りをした愚かにも浅はかな言葉は、そんな共存の可能性を奪う最低の言葉でしかない。

アバター
2017/05/25 14:43
色々考えちゃったのね。
ここで発散してくださーい(^^)
アバター
2017/05/25 01:59
いや、ないのよ。
ただ、新聞読んだりテレビ見たり、街中を歩いていたりすると、色々と考えるじゃないですか。
なんかムズムズしたから、書いてみただけなのです。

ありがとう
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2017/05/25 01:51
ないけど、あったのかな?
相談のるよ?
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2017/05/25 01:40
ないよ。。。
ないけど。。。
アバター
2017/05/25 00:03
なんか嫌なことでもあったの・・?



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