知情意計測機と閾値の法制化
- カテゴリ:日記
- 2017/02/26 09:22:58
相模原の事件以前から、福祉介護や知的障害者に関して考えることが多かった。
私には優性思想を支持する内面、排他主義に共感する部分があります。
そこで表題の如き『人間性テスト』を国策とすべきだという妄想を抱きました。
ヒトを人間として育て上げるシステムが大幅に変化した。
大家族制の崩壊、単親世帯の増加、育児の外注増加、多様な価値観等が要因。
こどもの権利という建前のもと、しつけの有効性が薄れている現実もある。
思想の自由を認めるのは、妄想を社会で現実化しない暗黙の了解があるからです。
それを社会で実行するのは既に人間存在であることの放棄と判定すべきです。
その「隔離と排除」は民意の下、国策として行うのが望ましい。
人間だったものが認知障害でヒトに成り下がる過程をつぶさに看るのは辛い。
私は薄情な人間であり、認知障害の老人を見ると事故死を願ってしまう。
親族が面倒をみて看取る風習も絶えて久しい。金を払って医療と福祉に丸投げ。
医師も介護福祉従事者も、もっと価値のあるやりがいのある仕事をさせるべきだ。
マンパワーの恐ろしい浪費であり、国民性変化と不人情の被害者でもあり、
巨大産業のなかで身動きがとれない。手を離せば空が堕ちると思っている。
親族が自腹で重度認知障害の高齢者を自宅で看取りたいなら構わない。
公的システムや制度利用はいい加減止めるべきだ。金は人間に使え。
「排除」に伴う葛藤を肩代わりするのが国家と制度であるべきだ。
どこからが知的なのか、正常な情動か、健全な意識の持ち主か。
それは誰も分からない。または個体の数だけ存在して一致しない。
だが必要なのであろう。成長段階に応じて、成人後も定期的に。
大昔のSFに幾らでも存在する選民思想です。レムのある作品を思い出す。
他者への暴力がテクノロジーで不可能となった世界で、幼児がいじめにあう。
彼は独りになったあと、公園の砂場にいじめた連中の絵を描いて突き刺すのです。
これは比喩だったのでしょうが、むしろ「それでもよい」という気がする。
いや、暴力を妄想する者も排除すべきなのだろうか? 今は分からない。
いずれにしろ優性思想、選民という発想を捨て去ることはできない。
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相模原の犯人を異常者として断罪する世論が主流となりました。
事件後、「気持ち分かるけどやっちゃダメだ」といった初老の従事者がいた。
それを聞いた施設責任者が「愕然とした」というコメントを残した。
この「愕然とした」という発言に、今度は私が愕然としてしまった。
報われない仕事を昇華して無私の喜びを見出すのが当然だという口調。
私は彼の発想を嫌悪する。性善説信奉者には狂信的な者が多いから。
秋葉原の通り魔殺人を思い出す。私はあの事件の時も他人事に思えなかった。
自己実現の幸福から疎外されたという妄執を発散したいという衝動、
それは多くの庶民の持つ怨恨感情だから、私もその一人たり得るからです。
人間性の定義、知情意の閾値設定。結局はそういう制度を設ける必要がある。
この妄想を捨てるのは難しい。個の尊厳というのは創作物に過ぎない。
また、コストのかかる「隔離」政策を「排除」へと進めるべきだ、とも思う。
知的障害者センター設立に反対する住民運動も存在します。
この運動を非難すべきなのか。在日米軍基地反対運動と何が違うのか。
人間が「ヒトならざるもの」から身を守りたいと思う気持ちを否定できない。
………長くなりました。こんな妄想を主義として活動する趣味はありません。
ですがこういう過激思想には単純かつ共感しやすい側面が多分に含まれる。
この思想を真っ向から断罪する思想も危険だと思うのです。
親の認知障害が進む。私の閾値はいつ爆発するか、実はそれを常に考えている。
各種制度を利用するのは私の主義に反する。これは個の問題だと思う。
その決定まであと数か月なのか数年なのか。それも私が決めることなのです。
またも真摯なご意見とご反論、有難うございます。恐縮の極みです。
ご意見にある「同化可能な方々」という部分、現実的にはその方向で社会が動いていますが、
実は「同化可能か否か」という閾値を設定することが物凄く難しいという想いがあります。
後半のお話、例の「保護なめるな」の一件と通じる部分がありますよね。
ある役所の福祉課で長年務めたお二人を知っています。どこから見てもその筋の人にしか見えない。
彼らでなければ対応できなかった「保護対象」が山のようにいた。ジャンパーの件、理解できるんです。
命があれば人間か、という問いには否と答えますが、ではお前は人間か、と聞かれても絶句します。
人間の知性・情動・意思というものに基準を設けることはできない。いや、できる。どちらなのか。
私は基準が必要であり、それは政治的な『枠組み』設定でしか解決できないだろうと思っています。
……難しい問題です。こうして語り合う私は『人間』なのか。語るにふさわしい知情意を備えているのか。
でも、胸を張って「我こそは理想的人間としてふさわしい知情意の具現者だ」という人物がいたら、
私はその人物こそ弾劾されるべきだと思います。複合的・多層的な問題であり、未だに態度保留なのです。
善悪二元論、介護する人・される人の対立or共存だけを考えていたら、
結論を出すこと自体が不可能な気がします。
本文が妄想であることを踏まえた上で、あえて下記の発言をお許しください。
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「隔離」も「排除」もすることなく、介護される人がいなくなる、
あるいは極端に少なくなって支えることが極々容易なものとなりさえすれば
こうした問題自体がなくなる、と思いたい。
「人間」が「人間」を「人間」として扱うことで、
人間の姿形をした動物は減らせるのではないでしょうか?
農福連携(農業と福祉の連携)、自然栽培パーティなどで検索してみていただけますか?
精神的な障害があっても、肉体に問題がなければ社会に貢献できる方たちがいます。
また、痴呆の場合、単に病気による不可抗力のケースと、
「何をしていいのかわからない」
「誰からも必要とされず寂しい」
などといったケースから発症・悪化して行くケースもあります。
必要とされ、頼りにされ、あるいは己のなすべきことがまだまだあると
考えられる人ならば、さほどボケることなく社会に貢献していけるのではないでしょうか?
一方で心身ともに頑健でありながら犯罪行為を犯し社会に害悪を撒き散らす者達や
かけらも働かず親の脛をかじりまくるだけ、
消費するだけの「自宅警備員」などと自嘲して
まともなふりをする者もいます。
(個人的な感情は別にありますが(^_^;))
彼らとて、社会に必要とされていない思い込みや、
更生するにしても行くべき場所を見つけられない、
といったことが大きな問題となっている気がします。
結局、我々が彼らを「人間」扱いしていないから、という気がしてなりません。
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えーと、私の本音は全く別のところにあります。
まあ、私も妄想で何らかの答えなりヒントなりを出してみたかった、
と思っていただければ幸いです。
コメント有難うございます。こうした過激思想を「いったん」認めたあと、我々は何を志向すべきか。
この答えが見つからないのです。漸進的な解決、同化政策という方法では損失と疲弊が多すぎる。
21世紀に世界が直面している問題とはこれではないか、という思いが高まっています。
人間から「ヒト」に成り下がることへの嫌悪、わたしも同感です。
相模原の犯人は異常者でもなんでもないと思います。
現に、こういってはアレですが、「ヒト」かもあやしい者だけ選別して殺してますよね。
先日もちゃんと診断済みのアスペルガー症候群の友達から友達を解除されました。
アスペルガーは場の空気、行間が異常なほど読めません。
それって「人と人との間」性、そもそも人間であるのか疑わしいです。
優性思想の持ち主といわれればそうなのですが、
相模原の事件、容疑者を異常者扱いではなく、
「誰の裡にもある」優性思想、それは本能にプリントされたようなものですね、
それをいったんは認めないとまずいと思うのです。
戦争を云々するにあたり、ヒトの攻撃性をまずは認めるのと近いと思います。
そして性善説派には狂信的な人、確かに多いですね。