「風の又三郎 1941」#1-5
- カテゴリ:日記
- 2017/02/18 17:26:02
稔が又三郎と叫んだのは、風に舞う白い布が谷に落ちて行くのを見たからだ。稔が指さした方向には何も無かった。稔だけが見た訳は、他の三人が強風を避けるように下を向いていて、哲也の影で風を受けなかった稔だけが空を見ていたのだ。映画に出てきた風の又三郎はガラスのマントで空を飛ぶ。
「あれはガラスのマントやって」
稔は又三郎だと言い張ったが、哲也は相手にしなかった。哲也の関心は稔が見た何かより、ドスンという音のほうだった。音が聞こえた方向は深い森。哲也は何が落ちたのか見に行くと一人で森に向かおうとしたのだが、近づく飛行機のエンジン音に歩みを止めた。哲也は双眼鏡でその飛行機を見た。それは練習機ではなく重爆撃機だった。
「何でこんなとこに重爆が」
哲也は清に双眼鏡を渡した。清の夢は飛行機乗りで軍用機に詳しい。清は双眼鏡を覗いて言った。
「ほんまや九七式重爆撃機や」
照子も哲也と清が見ている方向に目を向けた。肉眼でもはっきり双発機のシルエットが見える。爆撃機の後方をさっきの練習機が飛んでいるが、速度が明らかに違う。練習機が止まって見る。そのうち練習機が旋回して東に向かって行った。爆撃機は高度を下げながらこっちに向かって来るようだ。清が哲也の袖を掴んで言った。
「俺ら、見らてるのかな」
哲也は双眼鏡を覗いたまま答えた。
「あの高さからでは見えへんやろ」
哲也が言ったことが正しいのか、爆撃機は間もなく高度を上げて南の空に姿を消した。双眼鏡を清に渡した哲也は、二機の行動は演習であり、自分たちが見てはならないものを見たと言う。稔はその意味が分かっていない。
「なんでや、兄ちゃん」
「練習機が飛ぶのにわざわざ爆撃機が随行なんかせいへんやろ」
清が頷いた。哲也は胸を張ってもう一度言った。
「ええか、今、見たことは誰にも言うなよ」
稔はこくりと頷いて言った。
「なあ、あれはどうすんの」
稔は森を指さしていた。
「もうええ、帰ろう」
稔は納得していないようだが、稔の腹がぐうっと鳴った。
「兄ちゃん、腹へった」
「そやから帰るのや」
帰り道、音が聞こえた森の向こうに白い物が見えた。それに気が付いたのは照子だけのようで、前を向いて山道を降りて行く。三人を止めようかと思ったが、それをすると哲也が怒りそうだ。面倒は避けたい。照子は黙って三人の後を追った。急斜面から緩斜面になったところで急に男の子三人が走り出した。いつもの競争だ。下りで加速していくのが面白いらしい。そして、小さい稔が置いていかれる。ここまで来れば稔一人でも帰れるのだから心配はないが、そろそろ稔が悪態をつく頃だ。
「アホー、待ってええな」
稔は走るのを止めて、とぼとぼと歩いている。ほどなく照子が追い付いた。
「稔、あんたは小さいのやさかい、しゃあないわ」
稔は次男坊らしく、直ぐに弱音を吐くが、切り替えも早い。置いていかれたのを忘れたように空を見上げた。
「又三郎、見たのや。ほんまやで」
「そうかあ。でもな、又三郎は二百十日に来るのやで。まだ、ちょっと早いわ」
「二百十日っていつや」
「そやな、進学が始まる頃やね」
「ふーん」