私のコーテーション考
- カテゴリ:日記
- 2017/02/14 09:33:25
引用というべきか、直リンと表記したほうがいいのか、悩みますが、
仕事を離れた道楽/個性全開の自己ブログで私が遵守しているのは、
「直リン」を一切貼らないことです。ここには結構コダワリがあるのです。
まず音楽用語としてのコーテーションは、名曲や名手の演奏の引用です。
演奏後に「だれの何という曲へのオマージュです」なんて一切言わない。
分かるヤツにはすぐ分かるし、知らないヤツがいても何の問題もない。
次に書籍の註について。アレは無いと困るが詳しすぎるのもマズイと思う。
興味を持った一節が頭に引っかかり、ふとした拍子にその書に出会ったりする。
これは必然なのだと思う。註で完結してしまってはいけないと思うのです。
さて直リンの話。個人のブログも一種の著作だと思っております。
自らが影響を受けた名著や作品と同様、ある意味『謎』を残しておきたい。
興味のある人は自ら探してくれると思う。その過程こそが楽しみだと信じる。
もちろん著作権という問題から自らを守ろうとする下心もありますが、
読んだ方々を一種の『篩』にかけようとする高慢な感情も含んでいます。
興味があったら調べてくれ、それこそが楽しみであり「知」への入口かもしれぬ。
西洋美術や古美術の鑑賞では独学の楽しみを十二分に味わいました。
何が凄いか分からないが感じるものがある。色々と調べてみる。
そのうちに出会う。あ、これだったんだ。『本歌取り』に気付く喜び。
答えがすぐ手に入ることを重視する風潮が強いから、よけいに逆らいたい。
まなび、というのは答えの集積ではなく、絶えざる「疑問」の連鎖だと思う。
不親切な私のブログの自己弁護、でも今後もこれを貫く予定です。
趣味ブログのほうで、ごくたまにコメントを頂くことがあります。
ご自分で調べた結果を書き込んでくださることもある。死ぬほど嬉しい。
生涯逢うこともないだろう一瞬の邂逅、でも『同志』がそこにいると感じます。
レディメイドの情報をそのまま受け入れちゃうのが私は怖いし、疑ってる部分も多いのです。
自分の足と時間を使って調べたものの恩恵、ありがたみを痛感してるので、そこに拘ってます。
ですが確かに時間と手間はかかるんですよね。仕事ではとてもやってられませんが………。
以前、ある事象の検索結果(数万件あった)を最下位まで全て閲覧したことがありました。
あれは自分にとって重要な体験でした。検索というものの利便性と危険、揺れを理解できた気がします。
検索結果の持つ一種の「指向性」を体得することが、ネット利用で重要なのかな、と思います。
お悩みの本質部分には、『教導』というお考えがあるように感じます。
プライベートでの私は『教える』ことを放棄し、『見せる』『共に悩む』ことを心がけています。
「高所からの物言い」に私は物凄く反発を覚えるロクデナシなので、教師→生徒関係をパスします。
これも脱線ですが、現代の「生徒」は実利を要求し、「学徒」は非常に少なくなりました。
私は「学徒」と対等に付き合いたいので、実利を要求なさる方とのお付き合いはカットしてます。
これは現代非常に異端の考えらしく、よく呆れられます。私に寛容の精神が乏しいのでしょう。
でも興味がわかないとなかなか、調べることもせず・・・
ただ、興味はなくても書かれた方の勢いに引きずられて
調べまくってしまうことも。
中学の頃は広辞苑や社会科の参考書を読むのが楽しくて楽しくて。
・・・役に立ってるかどうかは別ですがw
わたしは反・戦後民主主義とかいいながらけっこうそこら優しいかもしれませんね。
ただ、そもそも読書日記がメインのニコブログをやっていて、
読んでくれる友人のほうが少ないんです。
だから、読まれた段階で「篩いにかけた」とはいえるかも。
で、とりあえず読んでもらえたあとは、
歳若い友人もいるので、なるべく平易な文章を心がけています。
が、結局、ユースケ様のおっしゃるように、
読んだけどそれ止まりでたいした感興をもたらせていない場合、
「○○はわからないからスルー」、そういうレスコメをいただくことがあります。
これ、個人的にはけっこうイヤなレスで、
「知らないことだからこそ、完全スルーしないで貪欲な好奇心を持って欲しい」と思うところなんですよね。
とはいえ、そう書かれる人がその歳もいかない子なので、
まだそこらの注意をするには早いかな、とも思うのです。
大の大人ですら、「知らないことを知る」愉しみをわかっている方もすくないし。
ここら、ユースケ様の御意見をうかがえれば幸いです。
あまり関係のない、……というか脱線しまくったレスですみません。