誕生日
- カテゴリ:人生
- 2017/01/24 18:00:13
(お題消化)
誕生日とは、自分だけの特別な記念日。
それ以上でも、それ以下でも無いのです。
勿論、同月同日に生まれた人は他にも大勢いるだろうが、自分にとっては自分だけの記念日なのです。
「よく歳をとる」というが、肉体は日々、一分一秒、老化しているから、誕生日に突然老化したり、成長したりすることもありません。
それでも生まれてこなければ、この人生を歩むことも出来ず、人生の出発点の記念日であることは確かなので、その出発点を与えてくれた両親、そしてその両親を与えてくれた先祖に感謝する日なのでしょう。
それよりも、誕生日とは別に、覚醒日というのがあると感じています。
覚醒日とは、新しい見方を発見したりして、何か歯車が動いた様な感覚になる日です。
恐らく、幼少の頃は、短期間に多数の覚醒日があったのだと思いますが、それはもう記憶にはありません。
私が明確に記憶しているのは、5回くらいでしょうか。
一回目は、高校時代に学校近くの雀荘で、タバコを吸いながら麻雀しているのを見つけられ、停学相当処分になり、親と顔を合わせたく無く、また見られても文句を言われない様に、ひたすら勉強していた頃でしょうか。
それまで勉強はしなかったし、成績もどん底という感じでしたが、無理矢理勉強しているうちに、問題を解く楽しさが分かりました。
戦後の日本経済の様にどん底の成績だったので、それはもう毎回成績が高度成長していきました。
上昇しているという感覚は、とても幸せなもので、そのまま大学進学まで続きました。
しかしまぁ、基本的な性格は変わらないもので、しかも大学という自由な場所にいたこともあり、再び麻雀漬けの日々が始まったりしたのですが・・・(^_^;
そして4年になってみると、残り一年で必要単位数をとれないことが発覚しました。
そこで初めて今後の人生を考えたのが二回目の覚醒日だったのかもしれません。
それ以来、麻雀は一切辞め、ひたすら単位取得に励みました。
それでも卒業単位には一歩足らず、もう一度4年を・・・つまり留年ですね(__;)
しかし、その留年のおかげで、研究室に入り、特別研究(卒業研究)をすることができました。
特別研究自体の単位数は少なく、卒業単位まであと一歩というところまできていなければ、研究に従事することは出来なかったでしょう。
その後研究生になり、結局二年間研究を続けることができました。
研究成果は所詮大学生の研究ですから大したことは出来ませんでしたが、その時に得た知識や経験がその後の研究の土台にもなり、そして今の思考の土台にもなりました。
ちなみに専門は生化学で、これは私が小学生の時から考えていた生命の起源に近づく為でした。
しかし、それ自体は今でも異なる仮説がいくつもある様に、まったく近づくことは出来ませんでしたが・・・(^^ゞ
その後の研究とは言っても、大学院受験に失敗した私はすぐに研究職に就けた訳ではありませんでした。
就職を迫られた私は適当な就職口を勧められ、それは特殊クリーニング会社という全くの専門外のところでした。
まぁ、今考えてみると、専門なんてそれほど大した問題では無かったのですけどね。
事務職を嫌って現場に入った私に待っていたのは、夏には冷房も無く近くでスチームが吹き出していたり、冬には外での作業とという現場で、1年半ほど経過してみると体重は激減し、体調不良となり退職することになりました。
その後数ヶ月ほどぷー太郎をして、大学の研究室の教授に就職をお願いしていたところ、別の研究室の教授から医療機器メーカーの研究所への就職を斡旋して貰いました。
そこでの研究は、医療機器開発に伴う検査薬の研究開発でした。
そこで得た医療や人体、免疫学、物理化学の知識は掛け替えの無いもので、今でも私の基盤となっています。
いくつかのプロジェクトを渡り歩いた後、会社の経営体制が変わり、私は営業職に回されました。
営業は嫌で嫌で仕方なかったのですが、今考えてみると貴重な体験で、もっと真剣にやっておけば良かったと思っています。
営業からの配置換えを要望していた私に待っていたのは、機器組み立て工場への移動でした。
東京から遠く離れた工場で、毎日部品の組み立て、新卒よりも低レベルな仕事をしていた私に、追い打ちをかけたのが転職をお願いしていた研究所の顧問が亡くなったことでした。
転職を斡旋してくれる会社からの連絡もほとんど無くなり、初めて絶望という感覚を味わいました。
それでも、その工場にいたことは、その後の品質管理という仕事に大きく役立ったのですけどね。
そんな折、転職斡旋会社の紹介で一年前に面接した会社から連絡があり、もう一度面接に来て欲しいと言われ、その会社に就職しました。
業種は健康食品の品質管理でしたが、絶望を味わった後だし、給料はとても良かったので、とても楽しく働くことができ、そこで三回目の覚醒日がきた様に思います。
それまで研究職こそ史上最高の職業だと思いこんでいたのですが、全く違う世界が広がり、所詮研究職なんて視野の狭いものだと気づきました。
その後品質管理や研究開発の責任者となり、大学の研究室における経験、医療機器メーカーの研究所における経験、更に言えば営業職、工場における経験まで含め、全てが役立ちました。
4回目の覚醒日は、そいういうことから大きく離れ、離婚した時でした。
結婚している時は分からなかったのですが、私は酷い夫で、いや人間としても酷かったと思います。
離婚後に、自分で家事をしてみて、元妻がいかに辛かったのかが分かり、そこからようやく人の気持ちを考えることが出来る様になったと思います。
これは地味な様に思えますが、実は最大の覚醒だったと思います。
5回目の覚醒日は、東日本大震災の時でした。
テレビでは、明確に嘘の情報が流されていました。
ただ、テレビでコメントしていた専門家なる人々は、語尾に「・・・と思います」と小さく付け加えていたので、正確には完全な嘘とは言えません。
完全に嘘をついていたのは、国の諮問機関である食品安全委員会の委員長だけかもしれません。
あの時、原発対応で適正な行動をしていたのは、実は菅直人だけだったのです。
その菅直人が、報道で歪められ、責任を追及される自体となり、日本のマスコミは信用できないばかりで無く、害悪であると分かりました。
それまでも、「報道は、事実を歪めて嘘を言う」と大学の倫理学の先生に教えられてはいましたが、その事実すら歪めているのだと分かってしまったのです。
そらからテレビを全く視なくなり、新聞も表題をざっと見る程度にしていると、更にいろいろなことが分かってきました。
そして、日本の近世史において、報道によって歪められ、貶められてきた政治家を考察し、現在の日本の危機的状況が見えてきました。
ちなみに、菅直人はそれまで嫌いな政治家でした。
特に「未納三兄弟」と国会で発言した時には、軽蔑すらしました。
しかし、さすが東工大出身という理系だった為か、原発事故の時にはその危機を正確に理解していたのだと思います。
まぁ、どの覚醒も、初めから分かっている人からみると馬鹿みたいなものですが、私の人生にとっては、重要な分岐点だったと思います。
いしころさんの記事を読んでいると、確実に一回は覚醒日があったと思っています。
まぁ、今までの私の経験からすると、覚醒するのは、自分の稚拙な部分が破綻してどん底にあった時の様に思います。
逆に言えば、稚拙な部分が少なければ、覚醒する必要性も少ないのでしょう。
そう言えば、東日本大震災の後、とある大寺院の僧侶が被災地を周り、被災者の悩みを聴いていたそうです。
その中の一人の僧侶が、一人の老人の悩みを聴いたところ・・・奥さんと息子夫婦、そして孫までも津波で流され、たった一人残されたとのことでした。
その時、その僧侶はどういう話をしたら良いか分からなくなり、自分自身が悩み苦しみ、辿り着いた境地が「覚悟」だったそうです。
「覚悟」とは、つまり「悟りを覚える」ということであり、つまりある種の覚醒だったのでしょう。
覚悟にしろ、覚醒にしろ、寺で修行しいたから辿り着けるものでは無いのでしょう。
逆に言えば、人生そのものが修行の場なのかもしれません。
あたるさんのこれまでの人生の覚醒日を興味深く読ませていただき
色々なご苦労があったのだと思いました
最初の高校時代の雀荘とたばこ。。には イメージが違ってびっくりしましたけれどね^^;
過去はそれなりに色々ありましたけれど もう今は 今の自分をいかに生き抜くか・・
それだけですね~私の頭はざるのようなもので 何も深く考えてこなかったから
こんなに年を重ねてもほとんどわかっていることは少なくて 何も意見が述べられない状態で
まぁ~人様の話を 興味深く聞かせていただくような そんな感じで毎日過ぎていく感じです
経験という肥やしが多ければ多いほど 覚醒日は増えていくのでしょうね
これから先の覚醒日がなんだか楽しみになってきました
ブログ読ませていただきありがとうございます(^^)/