Nicotto Town



『と思う』ことは美意識か否か


断定表現を好む現代、仕事界のみならず言明全般で蛇蝎の如く嫌われる『と思う』。
私はこの表現や、ゆ・らゆ・る・らる等の自発表現が大好きでございます。
これは美意識と認定してよいものだろうか。以下愚考してみます。

上代には受動表現より先に自発表現が生まれたという説を読んだ記憶があります。
日本の自然観に内包される、自然と対峙する者の畏敬と諦念が先だったのかな。
受動と能動というのは一種の論理だが、自発ってのは感性、肉体感覚です。

意に染まず動かされているという不本意さ、矮小な自己の自覚。
卑屈と謙虚は異なる。現代は謙虚が卑下・修辞表現と混同されがちである。
「やまとだましい」なる表現は嫌いだが、日本的精神構造には謙虚が見え隠れする。

謙虚には諧謔の精神が欠かせない。ヒューモア(この表記がスキ)と同根である。
「自己を観衆より低き者と規定したうえでおもむろに道化を行う」という評論を、
小林信彦が由利徹のアチャラカ芸に対して使ったが、和の芸道の多くに符号する。

更級日記に出てきた白拍子の幻想的な踊り、山水河原者の造りあげた石庭、
遡れば雅楽の笙の笛の音色にも「矮小な自己への自覚」が現れている。
『とるにたりぬわたしは ここに在り こう思うのだ』という意思の表明にも似ている。

階級社会と関連づける人、神との関係性を唱える方もいるが、私は賛同しない。
地球環境保全主義とも袂は分かつ。もっと根源的な人類普遍の思想である。
万物と、世界と対峙する不安、恐怖、微かな期待。同調や共感を必要とせぬ克己心。

低き位置から物申す際、明快な断定や確固たる言表はご法度である。
こう思う、このように感じられる、そう思われる。異言語に翻訳すると何かが零れ落ちる。
そして現代、西洋的論理が跳梁跋扈するおかげで、滴を拾い集める者は誠に少ない。

……ふう、断定表現ばかり使って書くのは疲れますです。こういう文章はキライだ。
曖昧さを許容できない時代のハシリは……80年代、民生パソコンの普及期かな。
21世紀に大手を振って歩き回る『謝罪文化』が浸透しはじめたのもこの頃でしょう。

まあヒューモアの希薄な時代になった。政治家の発言なんかにもそれが現れている。
譬えや冗談の類に教養が感じられん。マスメディアも笑い飛ばす器量を失った。
それを私たちが望んでいないのだから仕方ないっすけど。そう『思い』ますです。

不整合、論理矛盾、誤謬、事実誤認、錯誤、大いに結構。但し条件がありますね。
自己存在を笑い飛ばす精神の健全さ。これを備えた人の振る舞いは美に繋がる。
グローバル・多様性という前に、謙譲の美徳を復権させてはどうか、と思いますです。




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