語る言葉は流れるのみ。ただその流れは、美しいか
- カテゴリ:日記
- 2016/05/28 01:27:22
演説が始まり、間もなく。
なぜ自分が涙を流してしまったのか、いまも良く分かりません。
私にとって、71年前は私の生きた時間ではありません。思いを馳せることは出来ても、何かを感じることはできません。
勝者は勝者の歴史を語り、敗者は敗者の歴史を語る。そこに正誤は無く、ただその立つ位置によって風景が変わるのみ。しかしただ漫然と立ち、眺めるのではなく、深く佇み、自らがそこに立つことの在り様を刮目し、その意味の手触りを常に心の内に置き留める。
謝する、とは罪を購うことではありません。
謝とは、言葉を放つことで、他者も自らも許すこと。そして許すとは、緩めるということ。人は、肌を合わせ、言葉を投げかけ、謝することでしか交わることは出来ません。
私は、言葉の力を信じています。
何を語るのか、その作意はさして重要ではありません。語りに向かわせる想いと、そしてまさに語るその意思にこそ意味があります。
71years ago, on a bright cloudless morning, death fell from the sky and the world was changed.
そこに解釈や判断は必要はなく、ただ美しい青空を突き破る厳然とした死があり、そして我々が本来的な生の営みから逸脱し、立ち入ってはならない神の領域を侵し、我々の営みのあるべき世界を変容させてしまったという事実を、ただ認識すること。
意味そのものに忠実であろうとする姿、それだけでいいのではないでしょうか。
ただ素朴にそれだけでのものでしかないからこそ、私は涙を流したのかもしれません。
歴史とは年表ではありません。一億の民がいるならば、一億の意味がそこにはあり、その束ねられたものの一つの断面が、出来事として一言で記述されるだけ。
私にとって、71年前は私の生きた時間ではありません。想いを馳せることは出来ても、何かを感じることはできません。だからこそ、その記述された一様な出来事にではなく、唯ひとつの歴史を生きた、一個人としての生に想いを馳せることでしか、私の手の中になはない過ぎ去りし時間は、何も語りかけてはくれません。
私は言葉の力を信じていますが、しかし言葉がなければならないとは思いません。重なり合わせるものさえあれば、それは何でも良いのです。想いと意志があれば、それだけで人は交われるはずです。
すみません、ぼんやりとしてきてしまいました。
もう眠ることにします。
おやすみなさい。
画面の後ろで携帯いじって笑ってる女にむかついた
運動会前の夜。