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うみきょんの どこにもあってここにいない


「ファンタスティック 江戸絵画の夢と空想」2


府中市美術館「ファンタスティック 江戸絵画の夢と空想」(二〇一六年三月十二日─四月十日(前期)、四月十二日─五月八日(後期))、1から続き

 ちなみに出かけたのは前期展。
 展覧会の一章は「身のまわりにある別世界」。まさに章題だけでも、わたしが必要とする、大切ななにかだ。一章のなかで、さらに小見出しのようにテーマが細分化され、まとめられている。「月」「太陽」「気象」「黄昏と夜」「花」「動物」「天空」「夢」など。どれも身近でとおいものばかり。
 最初は「月」だった。水に浮かぶ月を描いた岡本秋暉《波間月痕図》にも心惹かれたが、円山応挙《雪中月図》(絹本墨画淡彩、天明八年(一七八八年))。墨の濃淡だけで描かれた空に満月。下にわずかに雪のつもった地表、そして月のそばになぜか雪。天気雨のようなものだろうか。降る雪と満月が同時にそこにあることが不思議だったが、それがリアルなものとして心にひびいた。そのリアルさが幻想的だった。満月の明るさが、雪を照らす。あるいは雪明かりが、満月とともに夜の世界を照らす。月はそれでなくとも、わたしには身近な、そして不思議ななにかをもたらす、明るさだ。朝、というかまだ暗い深夜、バイトに出かける。それを照らす月は、十六夜から新月にかけての約半月のあいだ、なじみ深いもの。十六夜の頃は西に落ちようとする月、それから日を重ねるにつれ、月が細くなってゆくにつれ、西から南、そして新月に近い有明の月では、東に見える。実際はいつも東から西に移動しているのだけれど、なんとなく、月が見える早朝に近い深夜、それらは西から東へゆっくりと昇っていっているような気がしてしまい、その都度、微笑んでしまうのだ。日々、月が西から東へ移動している…。違うのになあと。そして月が照らしてくれる、その時間は、やはり「身のまわりにある別世界」なのだ。
 円山応挙(一七三三─一七九五年)は、府中市美術館で、ここ数年来、心ひかれる作品が多かった人物のひとり。虎や犬を描いた作品たち。こんなふうに大切な画家が増えてゆくのだろう。今回はもう一点、となりの「太陽」のコーナーに、《元旦図》(絹本墨画淡彩、江戸時代中期(十八世紀後半))があった。裃で正装した武士の後ろ姿。彼は山の向こうから出てきた初日の出を見ているようだ。おめでたい図柄なのだろうけれど、後ろ姿がどこかさびしい。ながくのびた影がそうみせるのか。描かれているのが太陽と山と彼だけだからか。淋しいけれど、どこかすがすがしい。太陽のすがたに呆然としているようでもある。そうだ、わたしも毎年、家のベランダから初日の出を眺めていたっけ。その太陽はいつも特別だ。
 そのほか、空の動き、動物たち、黄昏という狭間、日々そこにあるものたちが、空想と橋渡しをしてくれる姿たちに、どこか心を押されながら、まさしく夢ごこち、なかば夢をみているような気持ちになっていった。
 二章は「見ることができないもの」。ここでは「海の向こう」「伝説と歴史」「神仏、神聖な動物」「妖怪、妖術」と章分けされての展示。鎖国をしていた当時は、「海の向こう」も当時かろうじて交易が許されていたオランダや中国からもたらされる情報をもとに想像するものだった。そして過去である「伝説と歴史」もまた、想像をはばたかせ、それらに触れることができるものだ。そして「神仏、神聖な動物」。神聖なものを考えるとき、それは想像の媒介が必須なのではないか。「妖怪、妖術」の、謎めく自然との接し方のひとつのかたちとともに。
 「海の向こう」にあった、つるつるとしたガラス絵(江戸時代にもたらされた外国の技法。ガラスの裏に絵を描いたもの)の醸す、冷たい優しさや、異国の街を描いた司馬江漢の《西洋風俗図》に心が動いた。彼もまた、府中市美術館で親しくなった人物だが、彼のことは、後で別の作品で語ることにする。
 「神仏、神聖な動物」にあった原在中(一七五〇─一八三七年)の《飛竜図》(紙本墨画金泥、江戸中期─後期(十八世紀後半─十九世紀前半))。中国では鯉は竜門と呼ばれる滝を登ると竜になるという。登竜門。立身出世を現す画題として、鯉の滝登りはよく描かれたらしい。けれどもこの鯉はもはや竜になりつつある。頭が竜で身体が鯉。飛ぶ竜とあるが、鯉と竜のキメラ状態なのだ。絵にひかれた、というよりも、その着眼点にひかれた作品。それはまさに現実と想像のキメラ、融合の瞬間をとらえたもののようであったから。
 ほかにも吉川一渓(一七六三─一八三七年)《白狐図》(絹本着色、江戸中期─後期(十八世紀後半─十九世紀前半))などに興をもった。夜のなかの、あやしい、けれども、神聖な白い狐さま。狐火が、空からおちてきたように、ながく尾をひいている。それは白い狐さまの尾と対応しているようでもある。夜に浮かび上がったような白さもまた、神々しく感じられるのかもしれない。つむった眼なのか、下をむいているのか、そうした眼が、なにか慈悲のような許しを感じさせている。
 第三章は「ファンタスティックな造形 いくつかのポイント」。ここでは金というどこか特別な色を使った作品や、霞の幻想性、そして富士をしなやかな形としてとらえての「金、霞、しなやかな形」、「見上げる視線」というポーズをポイントとし、さらに「非日常的な色」として、先にすこし書いたガラス絵を採り上げている。ガラス絵は、絵としては、申し訳ないがあまりひかれることがなかったのだけれど、その非日常性はなんとなく想像することができた。冷たいなかの温かさ。それは遠い異国を空想すること、遠さを冷たさ、空想を温かさと、添わせて考えると、質感がいっそう、感じられるのだった。
 そして「見上げる視線」にあった、鹿の絵、岡本秋暉(一八〇七─一八六二年)《鹿渡河図》(紙本著色、江戸時代後期(十九世紀))。見上げるということは、そういえば、遠さへ思いを馳せることに通じるのだ。見上げることで、近づくこと。それは空想と近しい領域だ。月を見る時、太陽を見る時、雲を見る時、みんな見上げてはいはしまいか。見上げた視線は、どこか、だから狭間的なものを見つめる態度であるのだろう。どこか浮世ばなれした、あるいは神々しい。前置きが長くなった。この絵の鹿は、横向きに、右を頭に川を渡るところが描かれているので、胴体の下は水につかって見えない。左上に木々の枝。そして鹿は右上、つまりなにも描かれていないほうを見上げながら、川を泳いでいる。その空白になにがあるのか、見るわたしたちの想いが、そこにかぶさる。空白なので、よけいに。鹿は夢みるような表情だ。あるいはそれは、見上げていることからくるのかもしれない。夢の鹿が河を渡る。


(続く)




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