「ファンタスティック 江戸絵画の夢と空想展」1
- カテゴリ:アート/デザイン
- 2016/04/17 18:37:39
展覧会にでかけてきた。「ファンタスティック 江戸絵画の夢と空想」(二〇一六年三月十二日─四 月十日(前期)、四月十二日─五月八日(後期))、場所は府中市美術館。副題に「春の江戸絵画まつり」とある。多分、ここ数年は、春になるとなにかしらの 江戸の絵画に関する展覧会が開催されている。たとえば同シリーズの「動物絵画の250年」(二〇一五年)、「かわいい江戸絵画」(二〇一三年)は、わたし にとって、素敵な展覧会として印象深いもの。
だから府中市美術館は何回か出かけている。うちから十数キロのところにあるので、最近は自転車を利用している。去年もやはり同じ時期に出かけているとい うのに、道に迷いそうなので、パソコンで地図をプリントした。スマホを使えばいいのだが、全体的な道が俯瞰しずらいのと、電池を食うなどの理由で、地図を 片手に、というわけだ。雲は多いが概ね晴れ、春というのに、その日はまだ寒かった。桜は開花宣言して数日後。いつもなら、そろそろ桜を探してさまよう頃な のだが、今年はそんな気になれないなと、道すがら、少しだけ咲いた桜たちを見かけて、ぼんやりと思う。こんな状態で美術館にいって、絵たちが何かしら語り かけてくれるのだろうか…。いやわたしが、心をひらくことができるのかと不安になる。風が冷たい。自転車に乗りながら、ここもここも通ったことがあると、 確認してゆく。さすがに道を間違う不安のほうは、薄れていた。それにしても意外と時間がかかっている。家を何時に出たのか覚えていないけれど、四、五十分 ぐらい経っているのではないか。調布から府中市へ。スマホの地図アプリで出かけたときは、この道を曲がった。わけもわからず曲がり、狭い小道をくねくねと 行くように指示され、どうやってたどり着いたのかいまだに見当もつかない。そうだ、その経験があるから、もはやスマホは使いたくないのだ。自分で判断する こと。
そんなふうに自転車で移動したことで、すこし頭を使った。それが良かったのかもしれない。美術館のある府中の森公園についた。美術館はこちらから行くと 公園を突っ切って一番奥にあるのだが、ともかく、その公園の緑を見た時、思いがけず心がなごんでいたから。美術館に向かうとき、前回は行き方が不安だった ので公園脇の一本道を使ったけれど、今回は公園を自転車で散策する気持ちで、公園中央をとおってゆくことにする。すぐに池と滝が見えた。水に出逢えて、や はり心がざわついた。噴水、そして公園内の桜並木。もう花はおわっているけれど。その桜並木が尽きるところに、目的の美術館が。あの角が駐輪場。もう次回から迷わないですみそうだ。
さて展覧会。
HPやチラシから。
「江戸時代の絵の中には、思わず、ファンタスティックと言い表したくなる作品があります。(中略)
それは、珍しい作品や大作に限ったことではありません。例えば、江戸時代に本当にたくさん描かれた普通の山水画を見れば、木立を包む別世界の空気や、山 の中に漂う霊気が鮮やかに感じられてきます。「お決まりの画題」と思いがちな、仙人や歴史上の人物、伝説を描いた作品からも、輝くような生気と楽しさがあ ふれ出します。
もちろん、江戸時代の人たちが「ファンタスティック」という言葉を使ったわけではありません。しかし、この魔法のような言葉をきっかけにすれば、当時の 人たちが絵の中に見た夢や空想を、私たちも実感できるのではないでしょうか。更には、技術や画家の歴史に興味をひかれる一方で、現代人が見失いやすい「大 切なもの」、つまり「絵の中で何を体験し、そこに何を感じるか」に意識を向けることもできるかもしれません。
「ファンタスティック」は、暮らしの色々な場面にあります。空を見上げれば、それだけで地上のあれこれから切り離され、そこに浮かぶ月や雲を見つめてい ると不思議な気持ちになります。黄昏、夜の闇、雪景色など、別世界は身の回りに広がっています。あるいは、神や仏、歴史や伝説、江戸時代の人たちにとって の外国など、実際に見ることのできない世界もそうであることは言うまでもありません。
(中略)この展覧会では、身の回りにあるもの、目に見えないもの、ファンタスティックと感じさせる造形のポイントといった、いくつかのテーマに沿って、 作品をご覧いただきます。作品は、前期と後期を合わせて、掛軸、屏風、版画など、およそ一六〇点です。江戸時代の人たちが絵の中に見た夢や空想のさまざま をお楽しみください。」
この文章のしめすところは、たしか入ってすぐのところ、「はじめに」といった感じで書いてあったと記憶する。細部はもちろん違うけれど。「「ファンタス ティック」は暮らしの色々な場面にあります」。この言葉に、わたしはどんなにか惹かれて生きてきただろう。そう思った記憶があるから。…ちなみにこれを書 いているのは、展覧会にいった翌日だ。つまり昨日。もう覚えていないのか。いや、なにやらもはや、夢のなかのような感じがするのだ。夢を思い出して書いて いる…。まさに夢と空想なのか。
ところでわたしは「ファンタスティック(fantastic)」という言葉についてどう考えているのか。たしかその場で、今更ながら自問したのも覚えて いる。「すばらしい」という意味があるのは知っていたけれど、やはり名詞の「ファンタジー(fantasy)」を念頭においていたようだ。空想、幻想、想 像力(後で調べたら、これは原語のラテン語に近い意味らしい)。空想、幻想の世界は、あの世のようなこの世だ。ここにありながら、別世界にあるもの。そし て、わたしたちのすぐそばにありながら、遠いもの。わたしはいつも、それを求めていたのではなかったか。今更ながら、この展覧会に来たかった理由が、もは や入口で判明してしまう。というか、腑に落ちる。なら、ここでわたしが心をとざす理由はもはやまったくない。絵たちは、わたしにきっとやさしい。いや、そ こまでは入口で思わなかったが、絵とわたしの距離感を不安に感じることはまったくなくなっていた。それはわたしがあちこちで感じていることたちであふれて いるはずだったから。それを教えてくれ、忘れていたことを思い出させてくれるものたちのやさしさ。
(つづく)