高柳昌行と阿部薫について
- カテゴリ:音楽
- 2016/03/30 10:35:00
高柳は日本のジャズギタリスト、古典を究め前衛で戦い続けた偉人です。
この人についてはファン、シンパが(敵も)山ほどいらっしゃいますので、
評価や批評はお任せしましょう。極私的受容と感想だけを述べますです。
前衛音楽に基礎と教養は必要か? 私は全くそう思っていない。
音楽、芸術全てに関し、表現したいものを内に抱えることが唯一の資格だと思う。
高柳はもちろん正反対。歴史と基礎、教養と技術の鍛錬を何よりも重んじたらしい。
この人の弟子筋もキラ星のごときビッグネームばかり。
全員バカテク、それもクラシックからジャンゴ、クリスチャン……王道のど真ん中。
神聖かまってちゃん(好きです)を非音楽と判定するであろう世界の話。
60年代末のニューディレクション、アングリーウェイブス、ソロあたりをよく聴きます。
特に好きなのは闘病からの復帰作『ロンリー・ウーマン』です。
アイラーコンセプトの集大成的な無伴奏ギターソロ。素晴らしい音楽だと思います。
ギターを弾き始め、ピートやジミの破壊的パフォーマンスや爆音を聴いたころ、
「この先にある飛翔は何か?」と考えていました。現代音楽も聴いていたためかも。
そのころから自分なりに完全無伴奏即興というアプローチを試していました。
『ロンリー・ウーマン』の演奏、凄く自分の演りたいことと似ている(と勝手に思う)。
出自も過程も全く異なるが、なぜそうなった(ように聴こえる)かを考えた。
高柳と私の違いは何か。それは歴史認識かもしれない。
正直なところ、彼のギターコントロールは壮絶な高みに達しています。
クラシック的な「音を正確に、最適な強さで、必要なだけの長さで弾く」技量も、
ジャズイディオムの基本教養も、引き出しも、リズム感も。超絶的プレーヤーです。
ロック屋全般を軽蔑する高柳の説得力がそこにある。王道のジャズが根底にある。
横内章次、中牟礼貞則、宮之上貴昭……こうした人々と起点は同じ。
ロシアンスクール出身のピアニスト同様、ものすごい『超絶技巧』。
その凄さは分かるが、真似ようとは全く思わず、頭の中で鳴らし続ける。
彼にとって意味のある歴史認識は、私にとって忌避(逃避)したい『権威』だからかな。
この件を煮詰めると非常に危険な領域になるので、私はそこで思考停止する。
同じくカリスマである阿部薫も好きで、彼の音も常に頭の中で鳴っている。
阿部は大言壮語の多い人だったが、古典教養的音楽とは無縁ではないか。
「○○を研究した」「■■はつまらない」ハイハイ、ツッパッってるねカッコイイね。
阿部の練習を勝手に想像する。弾き始めの私みたいなものだったのではないか。
耳から聞こえる、レコードから流れる曲に合わせ、出来ないトコがあれば適当に。
技量の無さは棚にあげ、「コイツはコイツ、オレはオレ」と思えば満足。それを続けた。
2人が共演している作品が幾つかあります。壮絶だが『良い』と言えるかは微妙。
俺は俺、お前はお前という見事な格闘であり、共に『在った』貴重な記録。
この時点では高柳のほうが演奏者として優れていた、と勝手に思っています。
『ロンリー・ウーマン』と阿部の『ラストデイト』を比べる。私は阿部のほうが更にスキ。
阿部のギターソロはどーでもよいが、ハーモニカのソロにはダウンした。
これは尋常ではない。いや、唯我独尊なのか。だからここまで来たのか。
「オレはオレ」というド素人(偏見)でもこんな地点に到達する。音楽ってスゲェ。
初期衝動のみに従い一切ルール無視、というか知らなくてもここまで行ける。
いつか伝わる瞬間がある。音は鳴りつづける。減衰しながら決して消えない。
……前衛界のカリスマお2人に対し、傲岸不遜な自意識を開帳してるだけですが、
2人に惹かれる理由は私にとって以上のようなものです。
古典を研究し発展させた前衛、古典を軽蔑し反逆した前衛。
最後に2人を知らない方に、勝手に1枚ずつお勧めしましょう。少々入手困難。
高柳昌行/アングリーウェイブス 『850113』(JINYA/PSF)
阿部薫 『ソロ・ライブ・アット・騒 Vol.4』(DIW)