Nicotto Town



高柳昌行と阿部薫について


高柳は日本のジャズギタリスト、古典を究め前衛で戦い続けた偉人です。
この人についてはファン、シンパが(敵も)山ほどいらっしゃいますので、
評価や批評はお任せしましょう。極私的受容と感想だけを述べますです。

前衛音楽に基礎と教養は必要か? 私は全くそう思っていない。
音楽、芸術全てに関し、表現したいものを内に抱えることが唯一の資格だと思う。
高柳はもちろん正反対。歴史と基礎、教養と技術の鍛錬を何よりも重んじたらしい。

この人の弟子筋もキラ星のごときビッグネームばかり。
全員バカテク、それもクラシックからジャンゴ、クリスチャン……王道のど真ん中。
神聖かまってちゃん(好きです)を非音楽と判定するであろう世界の話。

60年代末のニューディレクション、アングリーウェイブス、ソロあたりをよく聴きます。
特に好きなのは闘病からの復帰作『ロンリー・ウーマン』です。
アイラーコンセプトの集大成的な無伴奏ギターソロ。素晴らしい音楽だと思います。

ギターを弾き始め、ピートやジミの破壊的パフォーマンスや爆音を聴いたころ、
「この先にある飛翔は何か?」と考えていました。現代音楽も聴いていたためかも。
そのころから自分なりに完全無伴奏即興というアプローチを試していました。

『ロンリー・ウーマン』の演奏、凄く自分の演りたいことと似ている(と勝手に思う)。
出自も過程も全く異なるが、なぜそうなった(ように聴こえる)かを考えた。
高柳と私の違いは何か。それは歴史認識かもしれない。

正直なところ、彼のギターコントロールは壮絶な高みに達しています。
クラシック的な「音を正確に、最適な強さで、必要なだけの長さで弾く」技量も、
ジャズイディオムの基本教養も、引き出しも、リズム感も。超絶的プレーヤーです。

ロック屋全般を軽蔑する高柳の説得力がそこにある。王道のジャズが根底にある。
横内章次、中牟礼貞則、宮之上貴昭……こうした人々と起点は同じ。
ロシアンスクール出身のピアニスト同様、ものすごい『超絶技巧』。

その凄さは分かるが、真似ようとは全く思わず、頭の中で鳴らし続ける。
彼にとって意味のある歴史認識は、私にとって忌避(逃避)したい『権威』だからかな。
この件を煮詰めると非常に危険な領域になるので、私はそこで思考停止する。

同じくカリスマである阿部薫も好きで、彼の音も常に頭の中で鳴っている。
阿部は大言壮語の多い人だったが、古典教養的音楽とは無縁ではないか。
「○○を研究した」「■■はつまらない」ハイハイ、ツッパッってるねカッコイイね。

阿部の練習を勝手に想像する。弾き始めの私みたいなものだったのではないか。
耳から聞こえる、レコードから流れる曲に合わせ、出来ないトコがあれば適当に。
技量の無さは棚にあげ、「コイツはコイツ、オレはオレ」と思えば満足。それを続けた。

2人が共演している作品が幾つかあります。壮絶だが『良い』と言えるかは微妙。
俺は俺、お前はお前という見事な格闘であり、共に『在った』貴重な記録。
この時点では高柳のほうが演奏者として優れていた、と勝手に思っています。

『ロンリー・ウーマン』と阿部の『ラストデイト』を比べる。私は阿部のほうが更にスキ。
阿部のギターソロはどーでもよいが、ハーモニカのソロにはダウンした。
これは尋常ではない。いや、唯我独尊なのか。だからここまで来たのか。

「オレはオレ」というド素人(偏見)でもこんな地点に到達する。音楽ってスゲェ。
初期衝動のみに従い一切ルール無視、というか知らなくてもここまで行ける。
いつか伝わる瞬間がある。音は鳴りつづける。減衰しながら決して消えない。

……前衛界のカリスマお2人に対し、傲岸不遜な自意識を開帳してるだけですが、
2人に惹かれる理由は私にとって以上のようなものです。
古典を研究し発展させた前衛、古典を軽蔑し反逆した前衛。

最後に2人を知らない方に、勝手に1枚ずつお勧めしましょう。少々入手困難。
高柳昌行/アングリーウェイブス 『850113』(JINYA/PSF)
阿部薫 『ソロ・ライブ・アット・騒 Vol.4』(DIW)




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