Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


思うことは、そばにいるということなのか。


 亡くなった猫の夢をみた…その数日後、今度は亡父の夢を見た。
 何かのチケットがはいったバインダー。なかに展覧会情報などがたくさん挟まっている。わたしは家で、そのチケットが必要なイベントに出かける準備をしていた。最初、バインダーをそのまま持ってゆこうとしたのだが、重たいなと思って、チケットがはさまっている冊子だけをバインダーから外した。けれどもどうした拍子か、ほかのバインダーだったか書類の束に消えてしまった。たしかその冊子だけ、横向きに挟んでわかりやすいようにしたはずなのに。このチケットがないと出かけることができない。なんだったのか、たぶん文学関係の集まりだ。展覧会ではなかったはず。あるいはその両方があわさったもの。現実的には、チケットといえば、展覧会のそれしかないのだが、○○さんの受賞記念パーティに出ないといけないのだが、お金がないので、欠席し、祝電だけ送ろうかと考えていて、そのことが頭にあったからだと思う。
 もう何年も会っていない妹が出てきて、探してくれているが、やはりない。けれども手伝ってくれたお礼にと、ほかのバインダーをもってきて、これ、○○ちゃんが好きな漫画だから…とわたす。雑誌からひきはがしたものたちがはさんである。
 父がここに出てきて、いっしょにチケットを探してくれる。夢に出てくる父はいつも病み上がりだ。父はわたしが探して探せなかったところから、チケットをみつけてくれた。さすがだと思う。これで行ける…。
 目が覚めて、しばらくあれが父だとは気付かなかった。というか、当たり前のように父が傍にいたので、ずっと一緒に暮らしていたような感じがして、違和感がなかったのだ。夢に出てくる父は、たいてい、退院したばかりで、ずいぶん長いこと会っていなかった、そんな登場の仕方だった。今回の父はなるほど病み上がりではあったけれど、ずっと病み上がりのまま、私と暮らしているような、そんな感じがした。あるいは、それが心のなかで、父を思っている、ということなのか。父に会いたいな、父としゃべりたいなと、現実のなかで、思っている。そうした思いのため、父と日々、過ごしているような錯覚をどこかでおぼえたのかもしれない。なんだか禅問答のようだが、ともかく、夢でいいから父に会いたいなと思っていたわりには、父と会ったという感慨がなかったのだった。
 すこしだけ暖かくなってきた。だいぶ沈丁花のつぼみも膨らんできた。猫やなぎだと思っていた、あれは木蓮だったらしい。銀の毛につつまれていたので、勘違いしてしまったのだ。そういえば蕾の付きかたが随分違っていたのに。その木蓮の毛につつまれた蕾も膨らんだような気がする。木瓜や梅はだいぶあちこちで咲いている。いつもなぜか一本だけ、数日早く咲くソメイヨシノの木の近くに、満開の梅を見かけた。川のほとりで、桜のように幾分、川に身をのりだして咲いている。かすかな甘い香り。もうすぐ、たくさんの花たちの季節がやってくるだろう。そしたら気持ちもうわむくだろうか。




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