Nicotto Town



人間には社会性が無い 2


前回のブログの話を、昨年父に話し、「知ってた?」と聞いたところ、父や「いや、社会性のある動物だとは聞いたことがある」と言っていました。

そして数日後、父から「アリストテレス全集やプラトン全集があるから読んでみたら?」と言われ、更に「そうしたら変な考えにならないのではないか」と指摘されました。

その言葉にちょっとムッとした私は、「いいよ、古代の哲学は社会状況が違うので読みたくない」と反論しました。

きっと父は私の話に全く同意していなかったのでしょう。

実際には、古代の哲学が参考にならないとは思いませんが、今でも私の考えは変わりません。

何故なら、ソクラテス-プラトン-アリストテレスは師弟関係にあり、当時の社会状況からコミュニタリアン(共同体主義)だったからです。
現代の人気の哲学者マイケル・サンデル教授もコミュニタリアンです。

彼らコミュニタリアンの人たちにとって、おそらくホモ・サピエンスと人間を分けて考えているのだと思います。

前回も書きましたが、人類は数を増やしすぎ、社会を形成しなければ悲惨な恐慌状態に陥ってしまいます。

その為彼らは、「善き社会人こそが人間である」と定義していたのだと思います。

ソクラテスやプラトン、アリストテレスは古代ギリシャのポリスと呼ばれる都市や古代ローマ帝国の中で生きてきました。

その為、ポリスや帝国の中で生き、その常識を身につけることが善き社会人になる方法であり、それ以外のホモ・サピエンスは人間とは認めないのでしょう。
だからこそ、奴隷制を認めていたのです。

とは言っても、当時の奴隷は、近代の欧米諸国の行っていた奴隷制度とは異なり、一定の条件を満たすことで、ポリス人やローマ人になれたそうですが・・・

人類は確かに社会を形成しなければならないので、この考え方が悪いとは思いません。

しかし、現代の社会心理学者の様に、盲目的に「人間は社会的動物だ」と決めつけてしまうのは、非常に危険な要素があります。

「人間が社会的動物だ」という結論は、「人間は社会性が無ければ異常だ」と導き出すことも出来てしまいます。

もしそうなら、そもそも家庭や学校で行われている道徳教育が必要無い筈です。

例えば、社会性生物である蟻や蜂、シロアリなどを考えてみましょう。

彼女らは教育を受けることも無く、自由や平等、公平を求めず、他個体の行動に気を止めることも無く、暴動も革命もありません。

それは彼女らに知性が無いからでは無く、それこそが社会性生物だからなのです。

人間が培ってきた哲学、そしてそれによる社会形成は、結局ホモ・サピエンスと蟻の様な社会性生物との間で、どの立場がより良い人類社会なのかを悩み続けている様に思います。

アリストテレスやサンデル教授などのコミュニタリアン哲学者は、蟻に近い方の社会が良いと考え、リバタリアン(自由主義、新自由主義)哲学者は、類人猿としてのホモ・サピエンスとして生きられる社会が良いと考えているのです。

しかし、彼らが考えているほど、コミュニタリアンとリバタリアンの差は小さいものと考えられます。

結局、ホモ・サピエンスとしての本能的衝動をどの程度抑え、社会性をどの程度身につけた方が良いか、どこで折り合いをつけるかを試行錯誤しているのだと思います。

そして、善き人間=善き社会人である為には、所属している社会が善き社会でなければなりません。

前回推察した様に、恐らく人類社会は、他の類人猿との闘い、他の強き動物との闘い、そして他の人類との闘いから端を発して形成されてきたと思います。

つまり、現在の社会の根底には、常に「闘争」が内在している様に思います。

現代社会では、「闘争」は「競争」として現れ、「スポーツによる競争」、「受験における競争」、「出世競争」などが奨励され、常に「闘争心」を駆り立てています。
特に、金儲け競争は、「より原人に近い個の生物として多くの自由を獲得」できるので、ホモ・サピエンスとしての欲望を満たすことができるのでしょう。

哲学者は、ホモ・サピエンスとしての欲望と折り合いをつけながら、いかに安定的社会を築いていくかを試行錯誤しているのです。

そして教育者は、とりあえずの社会の中で折り合いをつけて生きていく社会人を育て、更により善き社会を作る様な人たちを育てることが使命なのかもしれません。



・・・と、父に反論したかった・・・

父は教育学者でしたから、まさに「善き社会人を育てる」ことに全力を注いできました。

その為、「人間とは社会人である」、「人間には社会性がある」と信じていたのでしょう。

四十九日も終わり、遺品整理するのですが、なんと言っても大量の本が問題となっています。
父の弟子達に必要なものは受け継いで貰うつもりです。


そして、私は「アリストテレス全集」と「プラトン全集」を貰い、読んでみようと思います。

#日記広場:人生

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2017/06/27 12:52
こんにちは!

ええ~~?久しぶり(;´∀`)
どうしてたか心配してました・・・
忙しかった?
もう来ないのかと思って、寂しかったですよ。
これからは少しは時間がとれるの?
近況聞かせてください。
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2015/08/08 18:17
banbiさん、コメント有り難うございます。

食糧の問題に触れていただいたのは、とても嬉しいと思っています。
ただ、この件はたぶん以前に少し書いたと記憶していますので、また次の機会に譲りたいと思います。

進化という概念について、分けて考えてみたいと思います。

一つは生物学的進化で、遺伝子の変異(変化)を伴ったものです。
現時点で人間が獲得している生物学的進化による社会性は家族社会までです。
これは基本的には人為によらないもの、俗に言う自然の進化です。
(とは言っても、人間の科学文明はこの領域に踏み込むことが出来る技術を持っていますが・・・)
この家族社会性は、哺乳類が獲得している母子社会にオスを取り込んだ家族社会のことだと、少し前まで思っていました。
しかし、京都大学の霊長類研究所の人の話によると、お爺さんやお婆さんも含まれる様です。
例えば、チンパンジーでは死ぬまで性的に現役である為、生物学的な祖父や祖母はいたとしても、家族構成員としてのお爺さん、お婆さんはいない為、子育ては母親によってのみ行われ、そのことが子育てが終わるまで次ぎの子供を作れないのだそうです。
チンパンジーではオスも家族構成員では無い為、子育てが終わるまで(約5年間)は生物学的に生殖が不可能となります。

さて、もう一つは文明や文化の進化で、一般には文明の発展、文化の発展と言われています。
こちらは人為的なもので、仰るとおり、残虐性は減り、良い方向に向かっています。
しかし同時に、人類を滅亡させるに十分な文明も獲得してしまいました。
長い時間と多くの自然淘汰の結果としての生物学的進化と比べ、文明や文化はあまりにも短時間に進化(発展)してきた為、部分的な淘汰に留まらず、人類全体が人為的に淘汰される危険性があります。
生物学的進化が結果的に「種の存続」の為の進化であるのに比べ、人間社会における文明や文化を伴った進化は「種の存続」とは違った方向に向かっている様に思います。
知性によって、「闘争心」を抱えつつ「種の存続」に向かう社会に修正できれば良いですね。

最後にカニバリズムについてですが、自然淘汰された人間文化だと思います。
何故なら、他の動物に生じた感染症の原因であるウィルスや病原菌は、簡単には人間には蔓延しませんが、人間の感染症は普通に人間に蔓延するので、その社会の存続に関わるからです。
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2015/08/07 15:16
こんにちは♡
「人間という種」というものを考えた場合、
<他種の命を搾取することによってしか、自分の命を持続できない生命体>で
あるので、攻撃性というものは、消してなくならないと思います。
ただこれは、地球上の生命体殆どに当てはまることで、
どれほど、進化を繰り返しても、
「暴力」と「殺傷」は、遺伝子の中で一番重要な「生存本能」として
残っていくと思います。

人間は、「他の命を食らうことでしか、生きていくことができない生命体」な
わけですから、同種同士であれ、
「殺傷」を正当化する感覚が働いてしまうのは、
当たり前のことのような気もするんですよね。
すごく変な考え方かもしれませんが、
もしこのまま地球上に人口が爆発し続け、食べ物が無くなったら、
ヒトは、ヒトを「食物」代わりにすることもあり得ると思います。

西洋人が
「豚や牛は食べてもいいけど、クジラやイルカは残酷」と
命を区別するように、
「A人種は食べてもいい人種。B人種は食べてはいけない人種」というように
食用人種を作り上げることもすると思います。
今、文明社会に住む私たちは、「人を殺さなくても食べ物がふんだんにある」から、
他者を殺さないだけで、
そうじゃなくなったら、どうなるかわからない。

それでも。
そういう人間と言う生命体でも、
長い長い進化の過程で、よりよき方向へ向かっているんだと、
思うんですよね。
社会性と言うのも、進化の中で選び取るものではないでしょうか。
「理性」や「文明」という人間独自の社会性の中で、
改善していけるものがあるとすれば、
「無駄な殺傷」だと思います。
生きるためではなく、「遊び」や「退屈逃れ」や「自己の快楽」などによる
殺傷をやめていくようになることは可能だと思うんです。
つまり、私の考えは、
「ヒトは自己の持つ残虐性からは逃れられないが、ヒト社会と言う独自性をもった
communeの中で学び取る新しい価値観が、その残虐性を
保ちつつ、よりよき方向へ変化させていくことができる」と言うことです。
甘いかな?^^;





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2015/08/01 21:32
banbiさん、コメント有り難うございます。

私には大森に大学病院のある大学の理学部に行ってました。
理学部は千葉にありましたが、健康診断とかは大森まで行って受けてました。
それと、数十年前は、パソコン関連の部品を買いに、よく大森や蒲田に行っていました。

banbiさんの言う通り、残忍さや不条理さといった部分が減ってきていて、比較的良い方向に向かっていると思います。
しかし、それは厳密に言えば、生物学的な進化ではありません。
ヒトの社会は、チンパンジーやゴリラなどの人類、更にはニホンザルなどの猿類などが群れで暮らさざるを得なくなったのと同じ様に、必要に迫られた結果のものです。
それらは、それぞれの種の知性によって作られました。
そして、ヒトは更に知性を発展させてきたもので、そこには連続性が感じられます。

しかし、その知性によって同種間、つまり人間同士の争いが無くならないのも事実です。
例えば、人間より若干知性レベルが低く、更に人間と同様に家族社会を獲得しているピグミーチンパンジー(ボノボ)は、同種間の争いというものが無いそうです。
彼らは、別の群れと接触すると、メスがもう他方の群れのオスと積極的に交尾します。
その為、別の群れが接近すると、闘争心の代わりに性的興奮を覚え、争いが起きません。
また、それらの行為は遺伝的多様性が高まり、種としての強さを得ることができます。
人間においては、それらは不貞と呼ばれ、そこにはプライドという知性があり、争いになるでしょう。
そういう点では、人間はゴリラやチンパンジーと同じで、ピグミーチンパンジーより劣っていると言えると思います。

人間の社会は知性によって形成されたもので、確かに良い方向に向かっていますが、その社会形成の根底にある動機は「闘争」であった為、ピグミーチンパンジーよりも種として野蛮になってしまったのかもしれません。

一方、闘争心は他の強大な敵に対抗するには必要なものです。
現在は、人間より強大な敵は、闘争心では対抗できない病原性のウイルスや菌類くらいですが、将来においても同様かどうかは分かりません。

遺伝的変異が伴う進化は、偶然性による優位な遺伝情報の変異が起こり、更にそれらが偶然に遺伝され固定化されなければなりません。
進化を待っている時間はありませんので、なんとか知性で乗り越えたいものですね。
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2015/07/29 22:22
こんばんは♡
人間はまだまだ種としての歴史も浅く、進化の過程の段階なんじゃないでしょうか。
たとえば、あたるさんのおっしゃるように
中世ヨーロッパ、
いえ日本の江戸時代なんかを見ても、
罪人の処刑は、庶民の娯楽で、
道を歩いていると、そこに「さらし首」なんかあったわけですよね。
私は実家が大森ですので、鈴ヶ森の処刑場なんかすぐ近くにありました。
それをみても、300年前の人間は、それほど衝撃を
受けなかったんだと思います。

でも今、私の身近に人間のさらし首がごろんとあったら…

「残酷」とか「死」がただ作為的に覆い隠されているだけで、
本質は変わってないのかもしれませんが、
それでも人間という種も、よりよきものに進化していっているようにも
思えます。

言葉をもって、道具を持って、文明をもって、
その過程では、「闘争心」は、重要なものではあったけど、
人はこれから「攻撃性だけでは補いきれない社会性」というものを、
確立していくのではないかと、考えたりします^^

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2015/07/26 14:09
紫水晶さん、コメント有り難うございます。

善悪は置いておいて、ホモ・サピエンスは発祥当時から社会を形成しなければならなかった状況の様です。
幸いにもホモ・サピエンスは知性を発展させる能力があった為、社会を形成しながら知性も発展し、試行錯誤しながら現在まで継続させることが出来ています。

しかし、社会形成の目的が「闘争」であった為、現在でも競争によって「闘争心」が養われ、未だに戦争を続けています。
それでも、アジアにおいても、またヨーロッパにおいても、残虐性は減ってきている様に感じます。

中世ヨーロッパでは、平均寿命が30歳くらいしか無かったそうです。
つまり、今の感覚で言えば、成人してようやく家族を持ったところで死を迎えるという感じでしょうか。
汚物を道にまき散らし、その臭いを抑える為に香水を発達させてきたことを思うと、感染症が横行していたと思われ、納得できるところです。

従って、あまりにも短い人生だったので、死後の世界に救いを求め、キリスト教が蔓延し、カトリックの教皇が絶大なる権力を持っていたそうです。
神聖ローマ帝国は教皇によってその権威を授けられた為、逆に言えば教会によって認められた反逆は神の意志となり、皇帝の地位は常に不安定だったそうです。

そして、ローマ教皇やカトリックに異を唱えるものは異端者であり、異端者狩りや魔女狩りが横行していた様です。

話が逸れてしまいましたが、ホモ・サピエンスが進化的に獲得したのは家族社会までであり、つまり家族以外の人たちとコミュニケーションとれるということは、それだけで社会性があると言えるでしょう。
つまり、少なくとも日本で育った人たちは、ほとんどが社会性があると言えると思います。

あとは、国家や都市による社会、自分なりの社会、そして基本となる家族社会のトライアングルの中で、どの位置をとるかということではないかでしょうか。
例え間違いだらけの社会であるとしても、その社会に全く順応しないのも生きづらいですし、完全に順応している人には間違った社会を更正することはできません。
つまり、中庸が大事という感じでしょうか。

紫水晶さんの仰る通り、そのトライアングルの中での立ち位置の多様性は、人類にとって重要だと思います。
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2015/07/26 13:39
いしころさん、コメント有り難うございます。

家族というのは一般には社会の最小単位として考えられていますが、ホモ・サピエンスである人間が進化的に獲得した最大単位でもあります。
人間よりもっと社会性を獲得していない動物のチンパンジーやゴリラなどは、母子社会が社会の最大単位となっています。
更に、哺乳類や蟻などの社会性動物以外では母子社会すらありません。

つまり人間が進化的に獲得している社会は家族社会までであり、それ以上の社会が必要になったとしても、家族社会を中心に社会を形成するべきだと私は思います。

従って、いしころさんの家族を一番に・・・という考え方は正しい考え方であり、それこそが正義と言えるでしょう。

人間の個体数が増えすぎ、家族社会より大きな社会が無ければ、殺人や強奪などが横行する悲惨な状態となってしまうと言ったのは、中世の哲学者トマス・ホッブスです。
私も同意見で、とりあえず作られた間違いだらけの社会だとしても、無いよりはマシと考えています。

現在、トマス・ホッブスのリヴァイアサンという本を読んでいるのですが、これがちょと難解で、アリストテレスやプラトンにたどり着くにはしばらくかかりそうです。
何故難解かというと、彼の生きた時代が、キリスト教カトリック中心のヨーロッパで、神に頼らない人間社会を社会契約によって作るべきだと主張していて、しかも民主主義も台頭していたのですが、それは神が皇帝や王を介さずに、皆に平等に指針をしめしたという聖書中心のキリスト教プロテスタントによるものだったからです。
そういう(キリスト教の)神ありきの当時の社会状況を加味しながら読まなければならいので、ちょと手こずってます。
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2015/07/21 10:41
こんにちは。
人間には社会性がない・・・だから、作ろうとするのが
人間のいいところではないか、と思います^^
でも、「こうである」という枠はなく、社会性のある人も
ない人もいる。くらいでちょうどいいのでは。
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2015/07/21 02:05
難しいことはわからないけれど ニュースを見るたびに人が死んでいく
地球のどこかで 戦争が行われていて 人生の半分以上を競争社会の中に置き
心も体も 常に戦っている状態を思う時 やはり社会性がもとから備わっているようには思えません
まぁ~自分としては 社会の最小単位である家庭を家族を大切にしていくことが 大きな社会を
少しでも 住みやすい社会にしていくための土台だと思っています 家庭で家族同士で学び合い
見せていく親の姿を通じて 子供は育っていく  三つ子の魂が大事なのも そういう意味から
ではないでしょうか ・・日本人の心の細やかさは とても素敵だと思って居ます
日本という国と人のいいところは なくしてはいけないです 
ちょっと主旨からずれたコメントになっちゃってすみません 

プラトンとアリストテレス ぜひ読んでみて 感想を聞かせてください(^^)/  



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