Nicotto Town


てらもっちの あれもっち、これもっち


科学と技術

科学というのは、自然現象を数式とか言葉とか、人間の分かる形で明らかにすること。

 けれども、実際の自然現象はそこにある。「発見した。」「判明した。」「解き明かした。」というのは、人間に見える形にしただけで、そもそも、そこにあることに変わりはない。

 パソコンやスマートフォンや空気や服や身体の中にだって、相対性理論はある。究極的状況じゃないから見えないだけだ。

 宇宙の法則に沿って、宇宙は動くのではなく、宇宙が動いて、そこに法則性を人間が見つけて、法則として記述しているだけ。

 それが科学。

 技術というのは、科学や知識を使って自然現象の支配する現実を、人間の都合のいいように未来を変えていくことだ。
 ここで間違えちゃいけないのは、同じように自然現象はそもそもあるわけで、人間ができるのは、自然現象の方向を変えているだけということ。

 ビルも橋も、電気も技術の結果だ。

 しかし、究極的には、人間が自然を文明に作り変えているわけではない。
 自然の中で技術を使って文明を作り上げてきた。

 宇宙から見たら、文明だって自然現象だ。
 地球の上で、何やら50億匹の虫みたいなのが、うじゃうじゃわいて、巣を作って、ピカピカ光ってるだけだ。
 神様から見たら蜂の巣も、ビルも違いはない。。のほうがわかりやすいか。

 人間は客観性を持ちきれない。主観的存在だということ。

心理学やら哲学やらも上記と同様である。
絶対的なものではなく、すべては相対的なものなのだ。

数学でさえ。
液体中で進化した知的生命体が、塩分濃度の分布から作り上げた抽象、定量的数学体系があってもおかしくない。

僕たちは、ものの物理的境界=原子間力を視覚や触覚などで識別できるから、0と1と2を区別したに過ぎない。

存在。非存在でさえ、生と死からくるメタファーではないかと考えてみる。

ウィトゲンシュタインは言葉の相対性に着目して、それまでの哲学的議論を言葉の定義の不整合だと喝破した。

お見事だと思う。でも彼の本の中でも言葉の不整合があったように思う。



さて、なにが言いたいか。

 医療技術に金かけすぎじゃない?とか、言葉だって相対的じゃないか。とかを強調したいのではなく、生命の仕組みのなかでも、性による多様性確保 って素晴らしいよね。ということを言いたい。自然または神がもつ技術力の高さに圧倒される。





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