科学と技術
- カテゴリ:30代以上
- 2015/05/03 18:26:12
科学というのは、自然現象を数式とか言葉とか、人間の分かる形で明らかにすること。
けれども、実際の自然現象はそこにある。「発見した。」「判明した。」「解き明かした。」というのは、人間に見える形にしただけで、そもそも、そこにあることに変わりはない。
パソコンやスマートフォンや空気や服や身体の中にだって、相対性理論はある。究極的状況じゃないから見えないだけだ。
宇宙の法則に沿って、宇宙は動くのではなく、宇宙が動いて、そこに法則性を人間が見つけて、法則として記述しているだけ。
それが科学。
技術というのは、科学や知識を使って自然現象の支配する現実を、人間の都合のいいように未来を変えていくことだ。
ここで間違えちゃいけないのは、同じように自然現象はそもそもあるわけで、人間ができるのは、自然現象の方向を変えているだけということ。
ビルも橋も、電気も技術の結果だ。
しかし、究極的には、人間が自然を文明に作り変えているわけではない。
自然の中で技術を使って文明を作り上げてきた。
宇宙から見たら、文明だって自然現象だ。
地球の上で、何やら50億匹の虫みたいなのが、うじゃうじゃわいて、巣を作って、ピカピカ光ってるだけだ。
神様から見たら蜂の巣も、ビルも違いはない。。のほうがわかりやすいか。
人間は客観性を持ちきれない。主観的存在だということ。
心理学やら哲学やらも上記と同様である。
絶対的なものではなく、すべては相対的なものなのだ。
数学でさえ。
液体中で進化した知的生命体が、塩分濃度の分布から作り上げた抽象、定量的数学体系があってもおかしくない。
僕たちは、ものの物理的境界=原子間力を視覚や触覚などで識別できるから、0と1と2を区別したに過ぎない。
存在。非存在でさえ、生と死からくるメタファーではないかと考えてみる。
ウィトゲンシュタインは言葉の相対性に着目して、それまでの哲学的議論を言葉の定義の不整合だと喝破した。
お見事だと思う。でも彼の本の中でも言葉の不整合があったように思う。
さて、なにが言いたいか。
医療技術に金かけすぎじゃない?とか、言葉だって相対的じゃないか。とかを強調したいのではなく、生命の仕組みのなかでも、性による多様性確保 って素晴らしいよね。ということを言いたい。自然または神がもつ技術力の高さに圧倒される。