Nicotto Town


てらもっちの あれもっち、これもっち


記憶、言葉、世界

「記憶」について、ずっと考えているのだが、そこから、結局、「言葉」に戻ってしまう。


「言葉」とはコミニュケーションのツールであり、思考のツールでもある。
どちらが先だったかといえば、難しい。

狩猟や採集活動で、「うっ」「おっ」「ぐおっ」というような、うなり声で、「お前やれ。」とか「これ、とったぞ。」みたいな意思疎通が言葉の成り立ちだとは思う。だからといって、コミニュケーションのために生まれた。というのも簡単過ぎで、各個人の中では、その指示内容を相手に伝えるために、うなり声にしようという意思、思考が既にあるはずだ。コミニュケーションかつ思考のツールの両方が起源。どちらかと言えば、思考に近い。

だから、言葉というのは「自分の言葉」でもあり「伝達のための、誰かのための、言葉」でもある。

 重要なのは指示、行動、事象という具体的なものを、音声信号という簡略化、抽象化したメディアにしているものが言葉だと言う事だ。
 これは、言葉こそが具体化である。抽象的なコンセプトを言葉で説明した時に始めて具体的に伝わる。という一般的な考えからは相反するものではあるが、ここでは、まず「現実」そのものだけが「具体」であるという前提から始めさせてほしい。「言葉」になった瞬間に、すでに「具体性」を欠き始めている。
 これは写真や動画のような映像情報を伴ったとしても、体験や現実の具体性にはおいつかない。

さて、それでは、「自分の言葉」とはどのように出来上がるのか。

脳神経学的なハードウェアとしての言語野や言語中枢?は遺伝だけど、ソフトウェアとしての言葉は、間違いなく経験から生まれている。
僕たちは幼児からの体験にて言葉を覚えてきている。最初は家族との会話。経験。自分に対する形容詞や、見ているものの単語。感情。表情。そして文節構造や助詞の使い方、現実と言葉の繋がり、すなわち意味を理解していく。
 そして、特に疑問形を覚える事で、間接的に理解する事を覚えていく。
 本や会話、TVやインターネットから間接的に現実を知っていく。そして言葉も増えていく。
 そして、会話や文章で言葉を使ってコミニュケーションをしていく。お互いの共通の意味をベースにして。

 しかし、その共通の意味とは、共通ではない。

 また、自己否定かよ。と思うかもしれないが、これまで述べた通り、言葉とはその人の人生の経験を背負ったものなのだ。厳密すぎるかもしれないが、人によってそれまでの人生が異なる以上、同じ意味でのコミニュケーションなど不可能だ。
 だいたい同じ(かなり同じ)意味を共通基盤にして、言葉のコミニュケーションは成立しているのだ。

 ロマンチックな言い方をすれば、

 言葉はその人の人生だ。

 言葉を発するとき、その人はその言葉に関わる思い出をその言葉にこめている。
 言葉を理解する時、その人はその言葉に関わる思い出を想っている。

さて、思考。
自我や思考という時に、人はぼーっと考えることではなく、頭の中で言葉で考えている事を思うのではないか。正直、僕が左脳的な人だからなのかもしれない。ゲージツ家の方や女性の方は、ぼーっとする思考なのかもしれない。
 でも、一旦、ここでは、言葉で考える事を自我とか思考と呼ぼう。上記に書いたように、言葉はその人の経験を凝縮したものだから、その人はその人固有の思考をするはずだ。もちろん遺伝子的に伝わる性格や、感情の影響は受けるにしろ。

 言語の思考の志向又は性格への影響は言語学的にも言われている事で、日本語が日本人を日本人たらしめている部分はある。クワガタがオオクワガタ、ミヤマクワガタ、小クワガタという風に分化されていなければ、日本人はここまでクワガタ好きじゃないだろう。讃岐うどんと関西風うどんと関東風うどんと分化されていなければ、うどん好きだけでなく讃岐うどん好きは生まれない。

 そういう意味で、各個人もどのような言葉を持っているか、どのような言葉を使えるかというのは、自分自身の性格や行動形態に影響を与える。これは単語の語彙というだけでなく、文法、文章の連なり、絵文字の使い方、言葉を発する環境、TPOもだ。
 
 緊張している時に、人という字を手のひらに書いて飲む。というのも、そういう意味で効果があるように思う。

 言葉で考える時も、同じように、その言葉に関わる経験をおっているとすれば、思考と言うものが、基本は未来への適応行動のためにあると考えれば、その言葉の現実との適合性が重要であろう。だから何を経験するか、経験した事を少しでも言葉になおしていく作業と言うのは思考においては、重要なのである。
 すなわち、言葉による思考とは、これまでの経験という具体的なものを、言葉という簡単かつ抽象的なものに直して、スピードを速く結論を出そうと言う行動なのだ。
 そして、それは文章に際する上で丁寧であるほうが良い。相手への伝達にたいしても、自己の思考に対しても。
 なぜなら、論理と言うものが、これも、また、未来への適応行動のツールだから。丁寧であると言う事は短く論理がわかりやすいように書いたり話したりする事だから。

 さて、さらっと書いたが、「思考が未来への適応行動のためにある」ここが一番言いたくて、このブログを書き始めたのだが、その意味は、また後々のブログに譲る。

だから、みなさん。

言葉を大切に。

自分の言葉を大切に。
他人の言葉を大切に。

生きよう。

そして、たまには、旅にでよう。









最後に、このブログの内容をぶちこわす内容を書いておこう。
少し抽象的、宗教的に感じるかもしれない。

言葉による思考の奥底には、言葉によらない思考がある。
さきほどの右脳的な思考、女性的、芸術的に近い非論理思考である。

そして、こいつが僕たちの本当の意思をにぎっている。

僕らの言葉に現れる意思と言うのは、この本当の意思の確認のために
あとからフィードバックとして現れる思考なのだ。
奥底にいるこいつと表面の言語的思考は表裏一体である。
いわゆる無意識。

こいつは、すごい。
言葉によらず、これまでの記憶や経験則から直接的に結論を出す。

これは感じてもらう以外ない。
心理学的にも脳生理学的にも証明されている事実でもある。

こいつは、愛情であったり、恋愛であったり、どうしようもない欲求であったり、第六感とか天性的な感であったり、超論理思考でる。そして、ちょっとした思考の方向性を決めることにも関わっている。

たとえば、そいつは、次の文節に読点をうつか、どの絵文字を選ぶといったことから、自転車の右左のブレーキの調節もしてくれるし、電車で向かいに座った女の子を可愛いな。と思わせてくれたり、重要な決裁の最後の決めをしてくれる。

そして、こいつは、奥底には生物としての、生命としての「生きる。」という欲求を含み、

さらに、遺伝子、そして、その存在を通じて
 野生、生態系、進化、共通意識、愛、生死、世界、宇宙
そういった混沌としたものが含まれているようなのだ。

言葉にできない。

感じるしかないものだ。

でも、僕は、いつか、こいつを理解してやりたいと思っている。

 理解とは自分お言葉で説明できるようになることだ。

では、みなさま、よい正月を。

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2015/01/04 15:31
サブですさん。

申し遅れましたが、明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
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2015/01/04 09:04
さぶです さま
コメントありがとうございます。
確かに、長い言葉は余計な意味を加えてしまいますね。
より短く、分かりやすく相手に伝えられる言葉と力が欲しいものです。
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2015/01/04 01:11
長い言葉のぶつけあいは、揉め事になります。何の悪意の無い文字でも。我を捨て去って、機械的・客観的で無ければ。



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