Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


小骨が黄昏のなかで影をのばす。(ヘルンさんへ)3



 わたしは、小泉八雲を、ク セニティスだと、ふといってみる。ギリシャ語で、「どこにいてもよそもの」。彼にギリシャの血が流れているのは、偶然だ。わたしはギリシャ人である、先年 亡くなったテオ・アンゲロプロス監督『永遠と一日』を思い出していっているのだ。大好きな映画。
 ストリート・チルドレンである少年が、死期の迫った詩人と出逢う。そして少年が詩人に言葉を教える。
 「クセニティス」「クセニティス、亡命者か?」「どこにいても、よそ者」。

 なんとなく、クセニティスのことを、今更ながら、インターネットで検索してみた。テオ・アンゲロプロスのインタビュー時の言葉がヒットした。
「私 は《死》についての映画を作るつもりはありませんでした。生きること人生についての映画を作りたいと思ったんです。そして《死》は《生》の一部です。一つ の段階にすぎません。(中略)ストリート・チルドレンなんですけど、この映画の中に出てくる《クセニティス》という言葉がこの子供たちを定義しています。 それは、どこにいてもよそ者である亡命者ということです。亡命という言葉には二つの意味があります。内的な亡命と外的な亡命です。作家の方は実際に他の国 に亡命しているわけではありませんが、実存的な意味での亡命者です。これはたとえば、カミュが『異邦人』の登場人物の中で描いたような内的な亡命です。そ して子供の方は実際に外国に難民としている外的な亡命です。このように二人の亡命者が同じ都市の中で出会い、言葉を交します。そして一つの人生が終わり、 一つの人生が始まるのです。」
(『永遠と一日』記者会見レポート http://www.werde.com/movie/interview/eoniotita.html)

  わたしはかれらに郷愁をおぼえる。内的な亡命者に。それはわたしがかつて肌で感じた、なにかからの疎外…と接するものだったのかもしれない。わたしは他者 たちを前にすると、空気全体で、跳ね返されるような気がしたものだった。磁石の反発の感触だと、ずっと思っていた。いまもあの感触の記憶はある。だがさす がに、感触を今なお感じているとはいえない。感触として受け取ってない、というだけかもしれないし(そうしたことは、おそらく慣れてしまうから…。たとえ ば匂い(臭い)のなかにいると、それに、いつか鼻が感じなくなってしまうように)、知らないうちに、よそものでなくなった…のかもしれない。いや、そうで ないことを望む。なぜなら、わたしにとって書いていることが、よそものの証しだから。
 あるいは、このごろ、じつはだれもがよそものなのではない かと思いはじめている、そうしたこともあるのかもしれない。だれもが、しらないうちに蝙蝠になっている、地をゆくものと、翼をもつものの間で。だれもが、 だれもに対して他者なのだ。そして、だれもが、しらないうちに、死者たちと触れ合っている。のかもしれない。

 「白い提灯がともっている あの灰色の墓石の下で、幾百年もの長い間眠り続けている人たち、(中略)そうした古い古い時代の人たちも、こうした光景を眺めたことがあるに違いない。い や、それどころではない、今、現に若い娘たちが捲き上げているこの埃は、かつてこの世にあった人たちだった。」(『神々の国の首都』)、そう、盆踊りをみ て、聞いて、小泉八雲は考える。寝床で、さらに考える。寝床という、目覚めと眠りの狭間の場で。
 「私にはそれが、私一個の生命より無限に古いも ののような気がする─(中略)あまねき太陽のもと、生とし生ける万物の喜びや悲しみに共鳴音を発するもののような気がする。また私は思うのだった──今宵 のあの歌は、自然のもっとも古い歌とおのずからにして調和を保っている。さびしい野辺の歌、あの美しい大地の声を形成する夏虫の嫋嫋たる音楽と、知らず識 らずの中に血脈を通わせている。そこにこそあの歌の深い秘密がひそんでいるのではなかろうか」(前掲書より)

 このごろ、わたしは淋しく なくなってきている。ようやくだ。いままでも、一人遊びがすきな子どもをどこかにひきずってきていたけれど、どこかに、いくばくかの淋しさがまじってい た。だが、それがほとんどなくなってきている。理由はきっと、色々あるにちがいない。だれもが、だれもに対して他者なのだ、と感じるようになってきたこと もあるだろう。だが、こうした、たとえば歌を聴くことによる、彼らとの語らいに気付いた、ということもあったのでは、とふと思ったりする。
 彼ら はそうして、もはや、わたしのそばにいつもいてくれる。たとえば、草花や、空のかたちをとる。雲や月。あるいはすれ違った猫。わたしは彼らに、亡くなった 大切な猫の面影を見る。おちているドングリたちの秋の便り、刈り取られた稲穂のどこか祭りが終わった後のような寂寥。彼らとは、いったい誰たちなのだろ う。亡くなった人たちであり、草花自身の姿だ。彼らはそこここにいる。十月もおわりになり、蝉の声はまったくもうしない、秋の虫の声すら、まばらだ。小泉 八雲なら、おそらく、もっとこうした、聞こえるものたちに、訪れを感じるのかもしれない。
 今朝、内容は殆ど忘れてしまったけれど、黄昏色の夢を 見た。四角く区切った箱のなかで、蚕が絹を吐いている、その小さな矩形が、綿のような絹で満ちてゆく、その絹のひとつひとつが、夕景色にハーモニーを奏で ていた。その矩形の立役者が、小泉八雲だった…。彼の助力があったからこそ、こうした格子状の夕景を見ることができた…、二重写し、影という言葉も、夢の どこかに転がっていた。宍道湖の夕景が、ふと浮かぶ。そして街の夕焼け。小骨がすっくとたちあがり、長い影をのばしている。




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