Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


北斎展 2


 それでも「諸国瀧廻り」(一八三三年頃)シリーズで、ようやく足を留めてみようかと思う。これらも何回か観たものだが、なんとなくそんな気になったの だ。《諸国瀧廻り 和州吉野義経馬洗滝》の蛇行する滝、途中で馬を洗っているのだが、そこに至るまでの大きな流れ、そして洗っている馬の足もとの、浜のよ うな水紋の表れかた、またすこし下に下って、最後に岩にくだける波しぶき、ひとつの絵のなかで、三つ以上の水のうごきが見れて、水たちが凝縮しているよう に感じられた。
 《諸国瀧廻り 木曽海道小野ノ瀑布》の、縦長の画面のほぼ上下大部分を使ってのまっすぐな流れ、蛇行とは対照的ともいえる、あまりのまっすぐさに、釘付けになってしまう緊張感…、ああ、この高さが描きたかったのだろうなと、見入ってしまう。
  さらに《諸国瀧廻り 東海道坂ノ下清滝くわんおん》、これは今掲げた二つの絵とは、水の量が圧倒的に違う。というか、少なすぎるのだ、小さな、滝とはよべ ないのではないかというほどの、ほそい水の線が、岩肌を伝ってながれてゆく…。岩肌で分かれ、また分かれ、しずかな模様を描いてゆく…。これらを観て、あ あ、こうした水たちの動きの違い、それらを描きたかったのだなと、しみじみ思う。そう思うことで、ようやく、なにかたちと近づけたような気がした。ようや く北斎展の世界に足を踏み入れることができた、というか。
 だが、実は、こうしたなりゆきは意外ではなかった。わたしの北斎によせる信頼は絶大な のだ。展覧会のどこかで、きっとこうなるだろう…とはわかっていたようだったのだ。もちろん、同時に、失望したままにならなくて良かったなとも思ったけれ ど。そこには直観的な信頼が勝っていたのだ。
 これ以降は、年齢的にも北斎七十歳代以降の作品ということもあり、あるいは滝の水によって、顔を 洗ったとでもいうのか、何か水を受け取ったとでもいうのか、北斎の作品たちがすっとわたしにやってきてくれた。相変わらず混んではいたが、何故だろう?  たいていひどく混むのは入口付近で、その後は少しだけ、混雑が緩和されるということが多い。みんな混んでいることに少し飽きてしまうのだろうか。ともか く、第一章の頃よりも、それでも隙間が見えるようになってきた。それもあって、絵を観るために並んでいる列にすっと潜りこむ。
 第六章は「華麗な花鳥版画」。やはり冨嶽三十六景や瀧廻りとほぼ同時代の、一八三四年頃のものたち。ここにチラシなどでも紹介されていた《芥子》、風に なびくそれがある。最近…いつだったのか、ずいぶん前のような気がしていたのだが、六月十五日のここでちょっと採り上げていた…好きな《芥子》があった。 風を感じるこの絵が、昔から好きだったのだ。
 会えた嬉しさはあったけれど、今回はそれほど、感動はなかった。いや、あったのだけれど、もうずい ぶん前から、《芥子》もまたあの“赤富士”たちのように、わたしのなかで大切な作品のひとつになっていたので、今回は、脇にいってもらっていたのだ。親し い友人に甘えるように。彼は放っておいても大丈夫だから。そうして、その間、あらたな客だか知人たちと接するのだった。彼らと親しくなるために。
  《桔梗にとんぼ》(一八三四─四四年)。こちらも《芥子》ほどではないが、すこしの風に桔梗がたなびき、花の表、裏が、蕾のそれとともに、さらにもはや終 わろうとしている花びらとともに、描かれている。ここには花のほとんどすべてが描かれてある。つぼみ、開花、終わり、そして静寂と動き。凝縮のなか、一匹 のトンボ。赤とんぼかもしれない、胴体が赤い。桔梗に降りたとうとしている、その羽が、わずかに欠けている…。羽がやぶけているのだ。そのことで生がリア ルなものとなっていた。枯れかかった桔梗がそうであるように。ここには生と生の終わり、それらが描かれることで、生の一瞬を閉じ込めてあるのだった。
  そして《文鳥 辛夷花》(一八三四年頃)と《鵤 白粉花》(一八三四年頃)。この二つの鳥は、文鳥とイカルと、種類は違うけれど、殆ど同じように見える。 というか、わたしの好きな北斎が描いた鷹…それとも、どこか似て見えるので、もちろん描き分けとかの問題ではない。そこに描かれた生が似ている、あるい は、どれを描いても北斎という作者が顔を出すのだ…、そういった意味で似て見えるのだが、彼ら、文鳥とイカルたちが、生き生きと、そしてどこか、ユーモラ スに首をかしげた横顔、その目の愛嬌のある大きさが、花たちの幾分デザイン化された、有り方と、対照的な動として、均衡を保っているのが、心に何かを訴え てきた。そうして、このデザイン化と、眼前のもの、森羅万象をそのまま描くということと、矛盾することなく、画のなかで、蜜月を送っているのは、ほかの北 斎の作品ともとても共通していると…、今更ながら思うのだ。あの「諸国瀧廻り」の滝たち、「冨嶽三十六景」の、あの富士たち。
 ちなみに、鷹は次 の第八章「為一期その他の作品」にいた。《桜に鷹》(一八三四年頃)。こちらは東京国立博物館でも観たことがある。それよりも刷りの状態が良かったように 思えたけれど。ともかく、だからこの鷹くんには、今回は脇にいてもらおう。そして《桜に鷹》の近くに《牧馬》(一八三四年)、《滝に鯉》(一八三四年)も いたのだけれど、こちらも割愛させてもらう。愛らしい、北斎独自の愛嬌のある動物たちだったけれど。とくに《滝に鯉》…。鷹が好きなように、彼の鯉も…、 この夏、岡田美術館で《遊鯉図》に会ったときの印象はまだ、というか大切な思い出として、わたしに残っている…。その鯉の眷属にまた会えた喜びがあったの だが。それとは構図は違うけれど、デザイン化された水、滝と、リアルな鯉の組み合わせは、北斎の生がふつふつと感じられ…、ああ、結局、鯉のことも書いて しまっている。いつか観た北斎の絵たちが、こんなふうに、今みている絵のなかで、わたしに語りかけてくれているので、つい。




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