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シン・ドラマ汁


ドラマ【軍師官兵衛】

軍師官兵衛
NHK 日曜夜8時~
【あらすじ】高松城水攻めのための築堤普請は驚異的な進捗を見せていた。秀吉毛利攻めの仕上げに信長の出兵を要請することに。一方安土城に徳川家康を迎えることになり、饗応役を任された光秀は準備に余念がなかった。いよいよその日が訪れ、信長は信頼篤い家康の来訪を歓迎する。しかし光秀が用意した能の舞台や食膳に信長は大いに不満を訴え、光秀を罵倒する。その夜、家康と歓談する信長の元に、毛利攻めへの出兵を要請する秀吉の書状が届いた。信長光秀を饗応役から解任し、自分が行くまで秀吉を助けるよう出兵を命じた。

【感想】今回の見所は、高松城水攻め本番、光秀の家康饗応失敗、光秀裏切る、くらいですかね。官兵衛の周囲では、後藤又兵衛の帰還というのもありましたね。この後藤又兵衛という人物、有名なのですが一体何をした人なのかまで知ってる人は少ないと思います。戦国に詳しい方ならご存知かとは思いますが、ドラマしか見ていない人にはネタバレになってしまうので、ここに詳しくは書きませんが、彼の最期を知って納得しました。幼少期に官兵衛に引き取られ、小寺が織田方を裏切ったことから黒田家から出て行ったところまではドラマの通りですが、その後いつ戻ってきたのかはちょっとわかりませんでした。彼の活躍はもっと後、九州征伐が始まってからになるようです。さて水攻めですが、偶然なのか時期を揃えたのか、Eテレの名物番組「課外授業ようこそ先輩」で、歴史好きの中では著名な歴史家・磯田道史が、母校の岡山の中学で、自分が歴史に携わるきっかけとなった高松城水攻めについて、中学生たちに教えてました。実際にその頃築かれた堤防が少し残っている場所に行き、史料から堤防の大体の大きさを調べ、その大きさを実感するためロープを張り渡し断面を再現してました。高さ7m、奥行き12mに及ぶ台形で、それが3km余りもあったそうです(wikipediaではそれぞれ8m、24m、4kmになっています)。これを12日間で作ったというのですから、ちょっと眉唾ものですよね。今だったら絶対にできません。その後、官兵衛と恵瓊が和議について話し合い、秀吉が清水宗治の切腹を求めたことで物別れになったことまでは史実のようですが、毛利方はその後宗治に降伏を勧めたようです。官兵衛がこれに関していたという記述はありませんでしたし、ましてや裏切れという内容でもなかったようです。ちょっと官兵衛活躍しすぎですもんねぇw それから家康饗応からの光秀謀反ですが、これはあまりにも有名すぎるエピソードで、研究もし尽くされているわりに、まだ謎の部分が多いので、諸説紛々としており、何が本当だったかはわからない状態です。饗応での叱責について、信長が家康を暗殺するよう命じたが、光秀が拒否したため…などという説もあるくらいです。なので史実とどう違うか論じるのは無意味で、ドラマではこういう説を取ったんだな、と思うくらいにしておいた方がいいですね。ただ、一通り調べてみて思ったことは、ほとんど根回しなどの準備をせず、今が好機とばかりにいきなり裏切った感は強いですね。親族でも織田方の武将はほとんど光秀に味方していませんし。人物的には、ドラマでは誠実な人という感じで描かれていますが、実際は切れ味が鋭すぎるナイフのような優秀な人物でした。ちなみにあまり宗教に思い入れはなかったようです。だからこそ信長に重用され、信用されもしたのでしょう。多少贔屓や古参に対する遠慮などもあったでしょうが、私は信長の家臣に対する態度は、人によりそれほど差はなかったと思います。秀吉などが失敗した時や気に入らない時はやはり罵倒したり足蹴にしたりしていたでしょう。しかしそれは忠実な家臣であるという信用があるからこそできたことなのではないでしょうか。信長の性格を手に取るように把握していた秀吉と違い、光秀はそのへんを履き違えてしまったのではないかと思います。本能寺の変の頃は、ちょうど信長の有力な家臣たちは各地に散らばり、信長の苛烈な性格を家臣として受け止めるのが、そばにいた光秀だけになっていました。それまで少しずつ確実に溜まっていた信長への鬱憤が、一気に溜まって臨界点に達してしまった、ということなのではないかと、ちょっと思いました。

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2014/07/09 17:28
黒幕説だけでも、家康の他に秀吉、朝廷、足利義昭、イエズス会など、
種雑多の説が飛び交っている状態ですね。
しかしどれも決定打には欠けるようで、
邪馬台国の場所と同じく、歴史の謎として真実がわからない方が、
ロマンティックなのかもしれません。
ただ、上記でも書いたように、あまりにも準備不足の感が酷く、
もし黒幕がいるとしたら、光秀はその場の勢いだけで完全に利用された
ということになってしまいます。あの聡明な光秀が…?と思っちゃうんですよね。
織田信長のやり方は今で言う成果主義だと思います。
家格や既得権益がものを言う日本の風潮の中、
昔からの家臣はなかなかなじめなかったでしょうね。
逆に身分が低かった秀吉や光秀のような武将には、
普通なら与えられないチャンスに恵まれるやり方でした。
しかし武将も年を取ればいろいろ鈍りますし、
元は身分が低くても権威が大きくなっていけばプライドも生まれます。
光秀は信長についていくのに疲れてしまったんでしょうねぇ。
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2014/07/08 21:31
光秀が謀反に至った要因は、たくさんあるでしょうね。
裏で糸を引いたのは、家康っぽいかな。
なんたって、恨みはありますよね。
妻子を殺されてますから。
気位の高い今川家からの妻、築山殿はともかく、嫡男信康は、特に出来が良い
子供だったようです。
みすみす、切腹させなければいけなかった事、これはちょっと許せないかも。

まあ、光秀の性格なら、信長とはそりが合わなかったでしょうが、今となっては、
どれが直撃になったのか。
想像の翼を広げても、分かりませんね。
光秀に秀吉のような性格になれとは申しませんが、少しは、穴の二つや三つ、
身体に開けるぐらいが良かったのかも。
休養なしで、過酷に働いた事も謀反に繋がったのでしょう;;



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