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聖典研究・善根功徳


日本の歴史 第6回 平安京の時代

 奈良時代は鎮護国家の思想のもと、平城京にはたくさんの寺院が建立されました。


そして寺院勢力は徐々に政治に強い影響力を持つようになっていきました。781年に

即位した桓武天皇が遷都を決断した背景には、新しい政治を行うには寺院勢力の強い

奈良を離れたほうがいいと考えたことがあったのでした。都はまず長岡京へ

移されましたが、洪水に見舞われたことなどから完成が断念され、改めて平安京へと

移されました。

 桓武天皇は同時にさまざまな政治改革も進めていきました。

 このころになると6年ごとの班田が難しくなってしまい、そこで班田を12年ごとにして

励行しようとしました(後に6年ごとに戻されました)。また、当時は諸国にある国府に

地方官として国司が一定の任期で派遣されていましたが、交代の際に官物(米などの税)

の在庫量を巡る不正や紛争が相次いでいました。そこで桓武天皇は引き継ぎのための

文書である解由状(げゆじょう)を審査する勘解由使(かげゆし)をおいて国司に対する

監督を厳しくしました。桓武天皇はそのほかにも公民からの徴兵制や軍団を廃止して

健児(こんでい)の制を設けるなどの改革も行い、律令制の立て直しを進めていきました。

 都の造営を進める一方、桓武天皇は蝦夷(えみし)との戦いを行い、律令制の支配拡大

にも取り組みました。蝦夷とは当時東北地方において律令の支配に従わずにいた人々の

ことでした。桓武天皇は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍に

任じて平定にあたらせました。田村麻呂は蝦夷の族長アテルイを降伏させるなどして

軍を北上させていきました。その際に現在の岩手県に築いた胆沢城(奥州市)や

志波(しわ)城は軍事拠点であるとともに税の取り立てを行う行政拠点という面も

持っていました。蝦夷の人々はこうして徐々に律令国家に組み込まれていったのでした。

 蝦夷との戦いと都の造営を同時に進めることは国家財政や民衆にとって大きな負担

でした。そこで桓武天皇は臣下にその是非を論じさせ(徳政論争)、そのうえで

二大事業を打ち切りました。

 桓武天皇の改革は嵯峨天皇に引き継がれました。嵯峨天皇は810年の

「薬子(くすこ)の変」を機に蔵人頭(くろうどのとう)を置きました。蔵人頭とは天皇の

そばに仕え、機密の文書などを扱う役所、蔵人所(くろうどどころ)の長のことです。

また平安京の治安維持のために検非違使(けびいし)も新たに設置しました。

桓武天皇が設置した勘解由使なども含め、こうした令の規定にない官職は令外官

(りょうげのかん)とよばれ、令を補うものとして重要な役割を果たすようになりました。

 律令の規定を修正・補足するための格(きゃく)や、施行上の細則である式が

次々に定められ、律令は格式によって運営されるようになっていきました。


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2014/06/05 18:53
さきたん、コメント&stp&waterありがとうございます(*^▽^*)

さきたんも和歌とかお上手そうですね(・ω・)bグッ
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2014/06/05 18:50
サーさん、こんばんは☆ 伝言(*´∀人)ありがとうございます♪ 
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2014/06/05 00:11
平安時代って貴族文化の頃ですね
雅でマッタリ 私素敵な時代だと思いますよ 和歌とか一杯素敵なものがあるし、
雨のせいか夜は結構冷えます 上着を着ました ((゚゚((Д))゚゚))ガクガクSTP&WTR
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2014/06/04 23:37
こんばんは、お休みでしたが家でゴロゴロしてたらアッという間に日が暮れてしまいました。とさ



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