Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


幻想たちが現実を変える─横須賀美術館 2


 美術館建物へ到着する。海に面した一階は、イタリアン・レストランになっている。外の席もあり、こちらも丁度昼時ということもあり、満席のようだ。海を見ながら食事を食べるひとたち。かれらもまた、海に惹かれてと、やはり親しみをおぼえる。ちなみにレストランのほうは、わたしが食べたアジフライの倍ぐらいの値段。こっそり、得した気分になる。
 というわけで、いよいよ展覧会。
 チラシやHPから。
 「 ヨーロッパで生まれたデザイン様式、アール・ヌーヴォーとアール・デコは、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、大きなうねりとなりさまざまなジャンルを巻き込みながら、広い地域に影響を及ぼしました。
 アール・ヌーヴォーの源泉の一つは、日本の工芸だともいわれており、逆輸入のような形で流れ込んできたアール・ヌーヴォーが、また日本で新しい流行を巻き起こしました。一九二〇年代以降にアール・デコ様式が広まると、日本でもさっそく、その影響を受けたモダンな工芸作品が生まれています。アール・ヌーヴォーと、それに続くアール・デコという装飾様式が、日本のデザインや一般の人々の嗜好に与えた影響は計り知れません。
 本展は、このように親しみ深く、かつ古くて新しいヨーロッパのデザインと工芸、そしてその影響のもとで開花した日本の作品の約一〇〇点を、東京国立近代美術館工芸館所蔵作品のコレクションから選りすぐってご紹介します。」
 ちょっと順番が前後するようだけれど(海辺にいるのだ、寄せては返す波に、これらが乗って、波間に浮かんでもいいだろう…)、展覧会を観終わって、図版カタログを買ったのだが、そこに掲載されていた論文に、気になる文章があったので、引用する。
 「往還する東と西──日本の工芸とヨーロッパのデザイン」(木田拓也・東京国立近代美術館工芸科主任研究員)に、(十九世紀後半の西欧では、)「工芸と美術のあいだに境界がなく同格のものとして位置づけられている日本の価値体系を知るにいたり、日本では生活そのものが芸術化されているという幻想を抱くようになった」とジャポニズムのことに触れているのが興味ぶかかったのだ。
 生活と美、あるいは生活と想像(創造)、生活が詩であること、それらを求め、それらでできた王国があると、どこかで、幻想としてはぐくんでいる自分がいるから。
 わたしにとって、それはたとえば、生活と美を一致させようとするウイリアム・モリスであったり、描くことが生活だった北斎だったりするかもしれない。看板絵を描いて、絵を描くことで生計を立てていたピロスマニもそうであるかもしれない。彼らに惹かれるのは、幻想であると同時に、自身もどこかでそれを追い求めているということだ。なぜなら、詩を書くことも幻想の領域だから。だが、生活は、わたしのなかでは、詩と直結はしないだろう。だが幻想と生活が離れつつも接点を持つことを欲している。その際で、彼らが幻想として、私に焦がれるほどに、ささやきかけてくれるのだ。生活と美の共存関係について、親しみのある、けれども、未知の言葉で。
 図録に戻ると、さらに日本でもまた、アール・デコに影響をうけ、それを糧に、新しい芸術運動がおこったことが紹介され、そのことも興味をひいた。
 「日本の工芸とヨーロッパのデザインは往還し、互いに影響を与えあいながら展開してきたことがうかがえる。そしてそのスタイルの変化の根底にあったのは、人々がそれぞれの時代のなかで思い描いていた生活の理想であり、生活と美術をいかにして融合させるかという課題だった。」
 では、今のわたしたちの暮らしはどうなのか…。そのことに「工業製品に囲まれて暮らす現在の私たちの暮らしのなかではもはや見失われつつある」…と、問題提起はされていたが、あまりに近すぎる事柄だからか、実際自分と生活…、自分と製品たち、という意味でだが、そうしたことが見えにくくなっていて、分からない。工業製品のなかでも、その範囲で、デザインたちは生みだされているだろう。あまりちゃんと考えたことがないから、本当は言及するのをひかえたほうがいいのかもしれない(するのなら、もっと調べてからでないと、なにか心にふれるものがあってからでないとだめだ)。けれども、私の家にあるものたち…これらはほとんど工業製品だし、けっして高いものではないけれど、なんとなく、デザインされた痕跡のあるものたちで満ちている。愛着のものとしてのひいき目もあるのかもしれない、そして、問題提起しなければいけないことは、沢山あるだろう。失われつつある技術に対してだとか。けれども、街には、おそらく、素敵なものたちが、あふれていると思うのだ。テーブル、椅子、小箱、食器…。…これも、あまり街に出かけなくなったわたしが、遠くを幻想として眺めているからかもしれないけれど。
 さて、展覧会へ、ようやく。よせては返す波たちにのって。
 ここでも、ミュシャやラリック、ビアズリー、ドーム、杉浦非水の地下鉄のポスターなど、確かに観たものばかりだったけれど、海が近いからか、いや、たぶん、彼らが、好きだから、としかいいようがないのだが、作品に対する感動云々ではなく(それはかつて感じたものだ)、再会の喜びにひたって、心地よかった。
 とくにラリックだ。わたしは彼がほんとに好きなんだなと思う。箱根のラリック美術館でも観た、展覧会のチラシにもなっている《ブローチ 翼のある風の精》(一八九八年頃/金、七宝、ダイアモンド)。箱根のラリック美術館では、《シルフィード》として展示、紹介している作品。本体は四センチ×八センチととても小さい。小さいのは何度も作品を見ているし、ブローチなのだから当然、解っているのだけれど、翼部分の蝶の羽を模した、緑色をメインとした繊細なきらめき、女神の金色の、身体をくねらせた、みずみずしい肢体、このなめらかさ、この意匠が、なにか大型の美術品であるかのように、いつも感じてしまい、そのまま記憶に温存されてしまう…おそらく、それほどインパクトがある、ということなのだろう、だから、ひさしぶりに実際の作品に会うと、いつもそのあまりの小ささに驚いてしまうのだ。たとえばチラシに掲載されているよりも、もっと小さいことに。そう、わたしが惹かれること、彼の芸術性、その意匠たちで、シルフィードは、奥行きを秘めた、美しい凝縮となっている。それが大きさとしてわたしのなかで記憶されてしまうのだろう。そして再会するたびに、作品の小ささに、うれしい驚きを感じてしまう。なにか海を前にして、波の音に驚くのと少し似ている。これが実物と出逢うということなのだ。

(続く)




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