Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


幻想が現実を変えるかもしれない─横須賀美術館 1


 ここで書いたら、元も子もなくなるかもしれないが(関係者がみていないことを期待したりして)、ここ一カ月ほど、詩の集まりなどへ出かけすぎて、疲れていた。毎週末、何かしらに出かけていた。続くと精神的にも肉体的にも金銭的にもきつい。だからある週末…誘いのイベントが土曜ひとつ、日曜ひとつ、二つあったのだが、法事と称して体よくことわった。多分片方はいかないとまずいような代物だったが、もう無理だ。どこか、おそらく心が悲鳴をあげていた。法事は本当にあったのだけれど、実は一週間ずれていて、第一わたしはその法事には、仕事の関係でゆけなかったのに、ともかく予定をいれなかった。やっとの休日。
 精神的…というのは、人と接するからきついのだろう。詩的ななにかたちと接するだけではないから。
 たとえば。結局、その週末、約束がなくなった土曜日、横須賀美術館へ出かけた。軽い遠出だ。だが、おそらく行って帰ってきて、肉体的には多少、疲れたかもしれない(次の日、ほとんど寝ていたから)、けれども心はすこしも疲れていなかった。そういうことだ、人たちが集まるところが、苦手なのかもしれないし…。このあたりは考えはじめると、なかなか難しいものが孕んでいるが、今日書きたかったことではないので、いつかにしたいと思う。
 ともかく横須賀美術館、ここで四月二十六日~六月二十九日まで、「アール・ヌーヴォーとアール・デコ」展を開催している…と、どうして知ったのだろう? 海にでも行きたいと思って、何気なく、海辺にある美術館として、インターネットで検索したような気がする。そしたら、丁度。ラリックやドーム、ミュシャの作品が、紹介されていた、たぶんそうだ。アール・ヌーヴォーやアール・デコもまた、つい最近行ってきた「ザ・ビューティフル 英国の唯美主義一八六〇─一九〇〇」や「ラファエル前派展」のように、もうさんざん観たものだろう。ただ、この二つは実は行く前から、食傷気味な感があったのだけれど、「アール・ヌーヴォーとアール・デコ」展には、そうしたものがなかった。東京国立近代美術館工芸館所蔵のものからの紹介だというから、多分見たものばかりだ、だけど観たいなあ…、行くことを考えると、心がぬくもった。ここが前者と違う。そして美術館は海に面している。海だ、わたしの大好きな海。そしておいしい魚でも食べてこよう。気分は横須賀方面へ向かっていった。展覧会と海と魚たちで、さらにぬくもりにみちた誘いとなったのだ。さらに、家人との、ひさしぶりのドライブだ。
 家から三浦半島までは、意外に近い。車だと片道一時間半ぐらいだろうか。電車だと結構遠いのだけれど。車は内陸、山っぽいところを通ってゆく。木々がすっかり新緑になっている。緑がやさしい。最近、こんなふうにほんのすこしの遠出といえば、まだ春まだ浅い、梅の頃、三月初旬、木々もまだ葉をつけていない頃だったから、この違いに、違和のようにすこしだけ驚いた。それはおおむねのやさしさだ。春というより、初夏の季節のなかで。途中、一度だけパーキングによった。日差しが強く、汗ばむぐらいだ。
 横須賀美術館は、横須賀と名前がついているけれど、実際はもっと三浦半島を南下した、観音崎にある。家を出たのが十時過ぎ、ついたのが十二時前だったか。緑多い内陸を走っていたと思ったら、いきなり海だ。坂をくだる感じで、進行方向に海の青が空の青とグラデーションをなして、突然現れる。このまま海におちてゆくみたいだ。
 横須賀美術館に車を止めて、歩いて近くの食堂へ。こちらはネットで調べたのだが、駐車場がないとのこと、お昼をすぎると名物のアジ料理が、食べられなくなってしまうこともあると書いてあったので、まず食事をしようと。
 実は前回、観音崎あたりを一人でぷらぷらしていた時(去年の秋だ)、この前を通りすぎていた。観音崎で飲もうと思って、店の目の前のコンビニでチューハイすら買っていたのだが、気付かずに通り過ぎてしまっていたところだった。食堂風で、外から中が見通せるわけでもない、ランチ紹介の看板なども置いてなかったので、知らないと入りにくいところなのだ。
 わたしはアジフライ定食、つれはアナゴの天ぷら定食を頼んだ。もう一品、タコの刺身も。
 私の食べたアジフライのほう、やわらかく、さくっとして、口のなかで、アジの白い肉がひろがる感じで、おいしかった。この海で獲れたものらしい。タコもしこしことしながら、ほどよく柔らかく、こちらも美味。アナゴはもともと好きではないので、一口頂いたけれど、わからない。
 ところで、普段あまり…というか、食べ物のことをここで書くのは初めてではないか。おいしかったから、というわけではない。実際おいしく頂いたけれど、今までは、あえて書かないようにしていた。食べることはどうも日常に直結しているようで、文章にするのに、不得手な感じがあったのだ。わたしはフライパンの詩が書けない。それと似ている。
 けれども、この間、行ってきた「絶対のメチエ─名作の条件」展、ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション(2014年4月15日のこのブログ…)の記憶が、どこかでささやいてくれたような気がする。デイヴィット・ホックニーの《煮え立つ鍋》、浜口陽三《くるみ》《アスパラガス》…。食べ物たちが、私に詩的な異質、やさしい息づかいを差し出してくれた、あの感触が、心のどこかで、私の長らくの間違い──食に対する偏見を、解きほぐそうとしているのだった。まだ、たどたどしい感じだけれど、これからも、少しずつ、書いてみたい。

 美術館へ向かう。歩いて5分ほどか。その途中、海を見る。東京湾にしては…という頭があるからか、澄んでいるように見える。おそらく伊豆のほうがきれいだろうとどこかで感じながら、この澄んだ感じで、十分だと、心地よく思う。
  波の打ち寄せる音に少し驚く。わたしのなかで海は、浜であったり、岩場であったり、船からながめる波がしらばかりであったり、波紋、そして、色たちのおり なす映像として大事にあたためてあるのだけれど、なぜか音は、そこから忘れられている。というよりも、音は、実際に海におとずれてからのお楽しみ…とし て、とっといてあるのかもしれない。だから、音を聞くと少し驚く、そして海にきたと実感がわいてくる。うちよせる音。ここの波は静かだ。映像としても、音 も。
 GWだからか、浜や、向こうにみえる観音崎には、人がいつもより多い。だが、なにか共有のようなものを感じて、ほほえましくなる。わたしたちは海にひかれてやってきているのだ。

(続く)




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