腕時計のあの子
- カテゴリ:人生
- 2013/11/18 00:15:58
半年ほど前に、長年愛用してきた腕時計の竜頭がとれてしまい、ショックだったけれど、たしか修理に出すとかなりの値段がかかった記憶があるので(ずいぶん前に、やはり竜頭が取れたことがあったのだ)、代わりに安い腕時計を買った。ベルトの色がワインレッドで、同じ色だったが、あとは全然違う。違うものをするなら、いっそ全然形が違うほうがいい。あの子の代わりなどいはしない…今から思うとおそらくそんな感情があったのだ。
新しく買ったもの、値段のわりに安っぽくみえないので、まあいいかと思っていた。今から思うとほんとうに実用品だった。時間がわかりさえすればいい。
数日前、道端で転んだのだが、そのショックで腕時計が動かなくなった。地面に手はついたけれど、腕時計に傷はついていないから、地面に直撃しはしなかったような気がする。たとえぶつかったとしてもほとんど衝撃はなかったと思う。でも動かなくなった。やはり安物はだめだ。前にしていた腕時計の良さをあらためて思い知らされる。あの子なら、このぐらいでびくともしないはずだ。
うちに帰って、前の腕時計を探す。竜頭はとれているけれど、なんと、まだ時間を刻んでいた。けなげに思う。5分ぐらい遅れてはいたけれど。
そして、この時計のことをどんなに気に入っていたかを思い出す。愛用品ということばがぴったりだ、愛して用いてきたのだ。あるいは長年、もう二十五年だ、身につけることで愛情が増していった。もっと前に気付けばよかった。
そして思いだすのだ。竜頭がとれたときのショックを。今回動かなくなった時計にたいしては、不便だなと思った程度で、ショックはほとんど感じなかった。あのショックは、彼女を傷つけてしまったこと、それによって生じる別れからくる、喪失感だったのだ…。なら、治せばよかったのに。まったく。
ネットで調べると、うちから数キロのところにあるデパートの中に代理店が入っている。電話をすると、修理を受け付けてくれるとのこと。今日、自転車で行ってきた。
お店の人は丁寧で親切だ。やはりいいものはこうしたところも違うのだなと思う。それはたとえば、アーツ・アンド・クラフツ運動的な意味だ。生活に美を。対応が美しい。嫌味に感じないでほしいのだけれど。こちらの受け答えも丁寧になる。身がひきしまりつつ、なにかやさしいものを感じる。「二十五年ぐらい使っていたので」「長年ご愛用くださり、ありがとうございます」。
修理におよそ三週間かかるという。値段はやはり結構したけれど、安い腕時計を何回か買って過ごすことを考えると、このほうが全然いい。全面的な分解修理になるので、直せばきっと当分壊れないはずだ。二十五年の間、分解修理をしたのは一回だけだから。ちなみに皮のベルトは他社製を使っていて、これも経年劣化がおびただしい。参考までに純正の値段を聞いたら、安くて二万七千円、高いと三万以上するというので、こちらはとりあえず換えないことにした。
店をでるとき、出口まで送ってくれた。
参考までにと、デパートの中で時計を扱っている店に、ベルトを見にゆく。六階だったか。素材によって違うけれど、五千円から一万八千円といったところだった。店員さんが近付いてきた。「腕時計お持ちでしたら、交換できますよ」「いえ、修理を頼んでいるので、今手元にないんです。修理のついでにベルトも交換しようと思ったんですけど、純正品だと結構するので、こちらだとどのくらいかしらと…」「メーカーはどちらですか」「●●●●●」です。「そうですね、たしかにプラス一万円ぐらいの値段になりますね」。こちらの店員さんも物腰が柔らかく親切だ。「では修理が終わったら、ここでベルト交換を頼みますね」「ありがとうございます。お待ちしております」
エレベーターで6階に来た時、下の階で、アヒルのリアルなぬいぐるみが売っていたのを見かけたので、のぞきにゆく。アヒルやガチョウが好きなのだ。ずいぶん高いところに展示していて、背がとどかない。買う気はなかったので、取ってもらうのもはばかられ、あきらめてその場を去った。クリスマス用品が売っている。メリーゴーランド、オルゴール、鮮やかなろうそく、クリスマスリース、キリストの誕生の場面をモティーフにした人形、ツリーの飾り…。新宿伊勢丹で、こうしたものを眺めるのが好きだったと思い出す。クリスマス用品の、ちょっと豪勢なものたち。幼年の憧れのようなものをそこに見ていたからだ。子供の頃、クリスマスが好きだった。プレゼントだけではなく、サンタクロース、街全体がにぎやかになる、冬の温もり。
ハーブの店で、ハンドクリームやパフュームを試す。ガラスや陶磁器を扱う一角に、ラリック社の製品が置かれていたこともうれしい。ほんの少しだったけれど、あの女性たちに出会えたこと。
じつはデパートが自転車でゆけるところにあるのも驚きだったが、時計修理にきて、ラリックやクリスマスに出会うのも、驚きだった。
デパートは電車でゆくものだという頭がある。それにうちは東京といっても都会ではない。畑も緑も湧水もある、比較的のどかな場所だ。
もちろんデパートがあることは知っていたのだけれど、なんとなくデパートというのは非日常なのだ。それが自転車という、どちらかというと日常的な乗り物と結びつくのが奇妙で新鮮だった、といったらいいか。
だいいち、帰りはその足でスーパーに寄ったのだ、晩御飯のなにかたちを買うために。ブックオフにも寄った。日常と非日常は接し合っている。はやく時計が帰ってこないかなと思う。今まで放っておいて、ごめんなさい、だというのに。