Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


古い日記から、ピロスマニ 2


2008年3月15日
 「青春のロシア・アヴァンギャルド展」に行く。埼玉県立近代美術館。完全にニコ・ピロスマニに会いにだけのために。これは巡回展で、去年のBunkamuraザ・ミュージアム(渋谷)が皮切りだった。こちらで二回見たので今回で三回目。さて会場。ピロスマニの十点の絵。同じ作品なので、さすがにもはや衝撃はない。だが絵を前にして、衝撃がないことにおどろきを覚えている。わたしはどこまで期待していたのだろう。絵の並べかた、順番が違う。Bunkamuraは《宴にようこそ》、居酒屋の看板が最初だった。そのあとも人物が続き、最後に動物たち。埼玉近美はいきなり《ひよこを連れた雌鳥と雄鶏》《雌鹿》《小熊を連れた母白熊》と動物が先で、その後に人物。これは一般的に最初に見たものをよく思ってしまうというからそのせいだろうが(翻訳本などでもそういうことがある。あまりにひどい訳は別だけれど、最初に出会った訳がなんとなくしっくりする)、《宴にようこそ》が最初のほうが、まるでこれからピロスマニの世界にようこそと誘われているようで、入り口にあるのがふさわしい気がしてしまう。
 ともあれ、こちらもほぼ一コーナーを使って、彼だけの小部屋といった面持ちで、十点の作品が展示されている。
 衝撃はなかったが、可能な限りの時間を当てて、そこにずいぶんといた。画集で見たときも思ったが、元々、酒場などにむき出しのまま飾られていたものなので、絵がだいぶ痛んでいる。金属板は錆び、厚紙はやぶけている。それは痛々しいようだが、当時という時間というか、彼が描いた、居た空間をしのばせるのだった。《タンバリンを持つグルジア女性》《イースターエッグを持つ女性》《ソザシヴィリの肖像》《コサックのレスラー、イヴァン・ボドゥーブニー》《ロバにまたがる町の人》…、そして動物たち。衝撃はなかったが、見ているうちにやはり悲しくなってくる。第一、そこに行っても同じ絵しか見れないとわかっているのに、何回も観に来たことがあったか、これまでに? 先日も、一期一会だから基本的に同じものは一回しか観ないと書かなかったか。
 画集『ニコ・ピロスマニ』によると、彼は白を、無垢なもの、やさしさ、静謐などとして捉えていたという。そして黒を下塗りしてから絵を描く。このほうが絵具が早く乾くからという実際的な理由もあったらしいが、「白は愛の色である、黒い牛は闘い、そしてうなる」とピロスマニ自身がいっていることからも、二元論的なものをそこに差し込みたくなってしまう。《イースターエッグを持つ女性》は、白いヴェール、白い服だ。《小熊を連れた母白熊》は、森の中の熊がなぜ白いのか、「不自然な住環境である」と、図録にはあるが、それは多分絶対白でなければならなかったのだ。やさしさ、愛情。この森には切り株がある。切り株は灰色だが太い輪郭や年輪は白い。切り株までもが白いのだ。
 そして《雌鹿》。雌鹿の飲む水が白い。そして茶色い鹿の輪郭線も白いのだ。《ロバにまたがる町の人》、ロバは黒い。だが腹はとても白い。
 「A 幼児性という言葉には始原的無垢というニュアンスがありますね。始原的無垢というニュアンスは、色で表わせば白色ということになりますが、これは先程の黒=白とどういう関係になるでしょうかね。
 B 無垢が白というのは、かなりヨーロッパ的概念で、それも十九世紀に発達したものかもしれません。」このあと、黒が死と再生のシンボリズムだと述べられている(『仕掛けとしての文化』山口昌男、ちくま文庫)。ピロスマニの絵に幼年も感じたのだが、それは始原的無垢といった箇所からの風としてもつたわってきたのかもしれない。あるいは子供の持つ、新鮮な驚きをこめた共時性。
 《祝宴》。長いテーブル(白いクロス)に前方を向いた四人の男、左に真横を向いて杯を持って立っている男、右に剣を差して杯を掲げて立つ男。テーブルの上に魚や鳥料理、ワイン、テーブルの下に、ワインの入った袋、弦楽器タール、タンバリンのダイラ。ここでも帽子が白、衣裳が黒(あるいは帽子が黒、衣裳が白)など、黒と白も目につくが、それよりも、彼らの視線が気になった。四人は前を向いているといったが、前といってもてんでばらばらなのだ。横向きの二人を除いて、左から、ほぼ真正面、幾分左、右、そして真正面。文章にしただけではわかりにくいと思うけれど、左のほうの人は、本来なら視線を右向きにしなければ、中心を見ていないことになる。そして、真横を向いて立っている人々も、片方は空のほうを眺め、片方は焦点があってないようだ。こうした絵は、肖像画として描かれているので、人々はおそらく画家のほうを見ていたはずなのだが。家に帰って画集を見てみる。彼はこうした「風俗画的集団肖像画」をたくさん描いているが、やはり殆どどれも視線はばらばらだ。彼が動物に自分を重ね合わせて描いたそうだが、この視線のばらばらさも、そうした重ね合わせが可能なのかもしれない。つまり彼が集団にいなかったということだ。あるいは、だれといても、どこにいても、わたしたちはばらばらの視線をもっているということ。あちこちで絵を描きながら、そこにいながら、ひとりで、家も家族も持たずにあちこちで眠る画家。最後は、物置小屋の地下室を棲み家としたらしいが。わたしがどちらかというと、彼の動物画のほうに一層ひかれるのは、そんなこともあるだろうか。
 一頭でたたずむ鹿。そして豚の親子、熊の親子、牛の親子…。親子には小津を思い出した。ちがうかもしれない。家族を撮りながら、独身だった小津と、親子を描きながら、家族を持たなかったピロスマニと。ちがうかもしれない。「映画と人生が違うのがもう当たり前なので、突然スクリーンに─何か本当のもの─何か現実のものを見ると、息をのみ身震いしてしまう。」(ヴィム・ヴェンダース監督『東京画』)だが、そこには、ピロスマニの動物には、なにかしらの“本当のもの”としての表情があった。

(続く)




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