Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


流れる川に蔓が流れる ウイリアム・モリス展 1


 生活と美しさを共存させること。平衡をとりながら、狭間を歩くこと。それは日常と非日常、現実と想像、たとえばそれらの狭間だ。
「ウイリアムモリス 美しい暮らし展」(二〇一三年九月十四日─十二月一日、府中市美術館)に行ってきた。
 最初に紹介を。
 ウィリアム・モリス(一八三四─九六)は、十九世紀イギリスを代表する詩人、画家、思想家、園芸家、工芸家、デザイナー。産業革命後、粗悪で安価な大量生産品が出回っていたことに反発し、画家(エドワード・バーン=ジョーンズ、ウォルター・クレイン等)や建築家(フィリップ・ウェッブ)とともに、室内装飾品や家具などを造る。この生活と芸術を一致させようとするモリスの思想とその実践はアーツ・アンド・クラフツ運動として、各国に拡がり、二十世紀モダンデザインの源流にもなっている。
 展覧会では、モリスデザインの織物、染物などの布製品、壁紙、モリス商会の室内装飾品(タイルやランプ)、椅子などの展示、美しい本としての印刷物、ステンドグラスの写真フィルムの再現などが見られるようになっている。
 ラファエル前派の少し後世代になるが、芸術面でも、その生活面でも関わりが深い。だから、ロセッテイやバーン=ジョーンズなどと絡めた展覧会が開かれたりしていて、昔からなんとなく、作品を目にしていた。多分ずいぶん前になるが、ウイリアム・モリス展単独のものでも、出かけた記憶がある。それに今も壁紙やファブリック、ハンカチなどでウィリアム・モリスデザインのものはお目にかかれる。うちにも何点かある。
 「役に立たないもの、美しいと思わないものを、家に置いてはならない」
 生活と美の共存、つまり日常と非日常の共存。いつからかこうした彼の思想には、興味を惹かれてはいたのだけれど、それまでに行った展覧会、いいなとは思ったけれど、感動したおぼえがなかったので、あまり期待していなかった。彼と、何となく私のなかでセットになっているバーン=ジョーンズ展もがっかりだったし。ちなみにバーン=ジョーンズとモリスは同じ大学で席も隣合わせ、生涯の友人だった。
 いや、実は期待していなかった、というのは少し違う。期待していない、いない、と力をこめて、自分に言い聞かせている風ではなかった。ちなみに、こんな風に意識的な時、たいてい、期待せずにいってよかった、つまり、わたしにとって、それほど心が動くことのない結果に終わる。まるで行った後の自分をあらかじめ慰めるかのような気分になることが多いのだ。
 そう、そうではなく、今回はもっと肩の力が抜けていた。期待していない、という言葉がぎりぎり浮かんでくる以前の、くくってしまえば、「期待していない」には入るのだけれどかすかな風のような、像を結ばない、そんな感じだった。
 そうして、今回のような気持ちで出かけた時は、出かけた後で振り返ってみると、たいてい良かった、という印象をもつことが多いような気がする。
 それは、後だしジャンケン的な、思いこみなのかももしれないけれど、こんな無意識的な期待のなさには、裏のどこかで、展覧会が私にあたえる印象を予測していたのじゃないかと、つい思ってしまうのだ。そんな変な既視感がある。つまり、無意識的に期待していない展覧会というのは、総じて、印象深いそれであった気が…。
 つまり今回の展覧会、私にとって、やさしい贈り物に満ちた展覧会となったのだった。狭間を川が流れていた。川の流線が植物の蔓に重なる。たとえばそんな風に、私の狭間に、ウィリアム・モリスの文様が、ふっと近付いてくるのだった。あるいはクッション(カバーはもちろんモリスデザインだ)が私の背中に置かれたみたいに。

 最初は《ひなぎく》(一八六四年、木版印刷、紙)、壁紙だ。後に見られるような絡み合うような文様の見られない、初期の作品。ひなぎくたちが、個々に原っぱに咲いているように、規則正しく置かれている。どこか素朴さを感じた。そして、ひなぎくに対する愛情のようなものを。中世の写本や古い民芸品を参考にしたとあったが、たとえば原っぱで、春まだ早い時期、たんぽぽを見つけて、うれしくなるような、そんな気持ちが、《ひなぎく》のまえで、共振のように、わきあがってきた。
 そしてこれも壁紙の《格子垣》(一八六四年、木版印刷、紙)。格子に組まれた生垣にバラがまきつき、花をあちこちで咲かせている。四角と赤い丸い花、五枚でセットの星のような緑の葉、そして棘のある茎の描くうねりとの組み合わせ。さらに花の蜜を吸いに来た虫たち、虫をついばむ鳥たち。四角と丸、花と虫と鳥、写実とデザイン、様々な要素がからみあって、訴えかけてくる豊穣だった。それは家にいながらにして、庭を感じることと、リンクする。
 《柳の枝》(一八八七年、木版印刷、壁紙)は、複雑にからみあう柳の葉と枝。デザインと写実を組み合わせているというよりも、もっと境界があいまいで、風にそよぐ柳の葉らしさ、光をあびた感覚までもが、眼前に拡がるよう、柳の葉そのものが、こんなふうにからまってあるのではないかと一瞬錯覚する。それがとても心地よい。柳の凝縮をみるようだとも思う。

 このあと、展覧会は「自然の形と文様の融合」というテーマで、さらに文様が顕著に見られる作品の展示となる。渦をまく円形、流線、渦巻き…。
 《るりはこべ》(一八七六年、木版印刷、壁紙)は、茎が渦を巻きながら、円を造り、他の茎と絡まりながら、花の側面を見せている。そのあいまに、今度はだいぶ小さい正面から見たるりはこべの青い花がのぞく感じ。側面から見たそれがだいぶ大きいので、くらべると同じ花と思えないようだが、るりはこべの花畑に迷い込んだような、やさしい気持ちになる。るりはこべは蔓性ではないので、茎が蔓のようにのびているのはあくまでデザイン化されたということなのだが、《柳の枝》のような生命感を感じさせた。
 ここには《クレイ川》(一八八四年、木版刷り、綿、内装用ファブリック)など、川の名前のついた染色のシリーズも取り上げられている。文様の流れるような形と、川の流れが折り重なり、重層的な流れをつくっているのが、快い。花咲く場所を流れる川たち。
 大量生産品の粗悪品を嫌悪したウイリアム・モリスは、必然的に丁寧な手仕事、素材へのこだわり、技術の追求などを行ってゆく。
 たとえば天然染料としてのインディゴの色合いに惹かれ、様々な実験を繰り返した、その格闘の果てに出来た作品として、紹介されているもののなかに、チラシや図録の表紙になっている、《いちご泥棒》(一八八三年、インディゴ抜染、木版刷り、綿、内装用ファブリック)があった。
 図録やキャプションによるとモリスの別荘で、育てていたイチゴをついばんでいるツグミにヒントを得たとある。イチゴの花を真ん中にして、左右対称に並んだツグミたち。まわりを茎や葉がうねり、花と鳥の後ろにイチゴがみえる。
 たぶん、何度かみているはずなのに、はじめてみるように、かわいらしさ、そしてネーミングの妙に、ほほえんでしまう。そうだ、これはその意味でははじめてみるのだ。心にさざなみをたてた、という意味で、あるいははじめてわたしは《いちご泥棒》の光景を目撃したのだ。

(続く)




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