Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


富士と不二、描いた稜線が、赤い糸だ。1


 冬になると、私の住む場所から、富士がよく見えるようになる。マンションのベランダから、坂の上から、富士見橋から。見かける度に心がざわつく。曇って見えない時は、あそこに富士がいるのだ、と呟いてみる。富士が頷くように、私のなかに稜線を描く。それはほのかな恋心にも似る。男の姿を探すように、私は毎日、富士を探す。

 彼との出会いはいつだったか。気がつくと富士は子供の頃から見ているものだった。基本的に東京に住んでいたので、頭のほうだけ、小さい姿のまま、見える大きさにさして違いがないからか、現在見ている富士に、子供だった自分が吐いた息の白さと、頭頂部の白さが重なるのだ。歩道橋から、最寄駅から、彼は見えた。夕焼けでバラ色に染まった川の真横に青い影をなす富士、あるいは男と過ごした朝帰りに坂の上から見た富士。

 私は水がずっと好きだと思っていた。海、川、池、沼、湧水ほか。電車の中で、車窓から水が見えると、今でもかならず喰いついてしまう。だが富士のことも大切に思っていたのだ。水に対しては初恋のような甘さを感じる。富士に対するそれは、長年連れ添った男への穏やかな愛情に近しい。それはやさしい空気だ。

 葛飾北斎のことを好きなのは、そのせいも少しはあるだろうか。「冨嶽三十六景」、「富嶽百景」。そうかもしれないが、違うような気もする。私がルネ・ラリックを好きなのは、彼が水を感じさせる作品を作っているから、というのもあるからだが、それだけではないように。北斎が仮に富士を描かなかったとしても(この仮定はかなり無理がある。富士があってこその絵、と思われる作品がかなりあるから)、私はきっと彼に惹かれただろう。

 新古書店で求めた画集『北斎美術館2 風景画』(集英社)を、そんなことを思いながらめくっていた。ここには肉筆の風景画、浮世絵「冨嶽三十六景」、摺り物「富嶽百景」、そしてそれらよりもかなり若い頃に書かれた浮世絵の「東海道五十三次」が収められている。ところで私は基本的に、画集を展覧会図録と思っている節があり、展覧会などで見た作品だけを見る。実物を生で見た後で、その記憶を温め、浮かべる為の補助として画集を眺めることが多いのだ。生で見るのと、印刷物を見るのでは、佇まいが違うから。

 今回は、富士のことを考えながらなので、おのずと三十六景と百景が中心となる。とはいえ、「冨嶽三十六景」に関しては、もう何度も実物を見ていたので、特に「富嶽百景」、これは展覧会でも少ししか見たことがなかったので、今までちゃんと頁を開くことがなかったが、気づいたらのめりこんでしまった。だが最初の印象はこうだ、「本物はもっと凄いんだろうな、展覧会、いや、いっそのこと古書店とかで現物に触れたいなあ」。けれどもふと気付く。これは元々絵本、摺り物なのだから、紙質や経年変化等の違いはあるが、画集でもそこまで違うことはないのではと。そう思ってみると、げんきんなもので、展覧会で見ているような気がしてくる。集中して見れる、というのか。いや、どこで見たってそこから得るものはあるのだと、だれかが諭してくれるようだった。おそらく富士が。


(続く)




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