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うみきょんの どこにもあってここにいない


よしあしの狭間を月が流れる─仙厓と禅の世界展1


 『仙厓と禅の世界展』(出光美術館、二〇一三年九月二十一日─十一月四日)に行ってきた。
 HP、チラシなどから。
「仙厓(一七五〇─一八三七)は、軽妙洒脱な筆致で描いた書画によって庶民を教化し、“博多の仙厓さん”と慕われた江戸時代後期の禅僧です。 これまでにも、悠々自適の晩年を作画と趣味に生きた江戸時代の代表的な文化人としての仙厓像や、禅画に表されたユーモアとその裏に潜む教えと教訓の世界に焦点をあてて、作品を読み解いてきました。
 今回は、日本に伝わった禅の教えが広く一般に浸透していった近世に、臨済禅をひろめることに邁進した仙厓の姿をふり返ります。特に、中国伝来の禅の精神を再解釈してわかりやすく説きほぐし、さらに、その教えを庶民に広めるにあたって、自らの得意とする画を活用して数多くの作品を残した仙厓が伝えようとした禅とはどのようなものだったのか。仙厓の禅画の世界を今一度見つめ直してみたいと思います。」

 以前何回か出光美術館に行ったとき、ミュージアムショップの絵ハガキなどで、仙厓の絵は見たことがあったが、絵ハガキだし、それほど注意ぶかくみたわけではなかった(絵ハガキは、展覧会で見て、気に入ってから、じっくりみるものだ)。けれども、すこしだけ、心の片隅に、残っていた。なにか、ちいさなやわらかいかたまりが。ちなみに出光美術館は、出光興産ならびに美術館創設者、出光佐三氏の集めた仙厓コレクションが約千点にのぼるという。
 そのやわらかなかたまりが、わたしのなかではじけたのが、「かわいい江戸絵画展」(平成二十五年三月九日─五月六日、府中市美術館)で、はじめて仙厓の作品の実物を目にしたときだった。
 そのときは、禅画としてとりあげられていたわけではないので、入口として門戸が開かれていたと思う。「かわいい」くくりに入った作品だったので、意味をあまり気にせず、ただ描かれた絵そのものを受け止めてもいいような気がしたから。
 その絵はやさしくなつかしいものだった。稚拙とさえ呼んでしまいそうな、だがそれがきっと幼年につうじる、つきぬけるようなおおらかな筆づかいの“とら”や“ねこ”…。
 と含みがある書き方をしているのは、「仙厓と禅の世界」展では、展覧会名からも推察されたのだが、禅の知識が不可欠なような気がして、敷居が高く思えたから。
 これはわたしの怠慢なのだろうけれど、絵とそこに書かれた言葉、それらを合わせてメッセージを受け取るということが、あまり得意ではない。これは絵ばかりでなく、たとえば詩などに絵がつけられたもの、特定の絵に対するオマージュである詩なども、どちらかというと苦手だ。
 絵なら絵だけで想像をおよいでほしい、言葉なら言葉だけで。特に後者は、その絵をしらないと、詩のもつ世界が広がらないような気がして、好きではない。
 だが禅画…。仙厓は禅僧なのだから、それをとりあげないと彼を体験したことにきっとならないのだ。あるいは当時の人々のように感じる…ことはきっとできないが、そんなふうに思いをはせることは。
 と、展覧会会場で、絵とそこに書かれた言葉、そこに読み解かなければならない禅の思想…それらを思い、見ながら、敷居の高さに戸惑った。「~しなければならない」のではないのかもしれない、もっと自由に眺めてもいいのかもしれない。気さく絵とことばを書いてくれた仙厓なら、もしかして、そんなふうに背中をおしてくれるかもしれない。けれども、どうにも萎縮してしまう。そんな小さな葛藤をいだきながら、展覧会の特に最初のほうをまわった。「一・仙厓略伝」「二・仙厓版「禅機図・祖師図・仏画」集成─仙厓と禅の世界」。
 ちなみにチラシやチケット、図版カタログなどに使われている絵は、この二章にあった。いかつい丸顔の僧に首ねっこをつかまれているとら柄の猫のもの。《南泉斬猫画讃》という。
 この絵の全体をみると、さらに僧は右手に刃物をもっていた。下方にさらに二人の僧。これは、二人の首席僧が、迷い猫のことでもめていて─猫における仏性のことなど─、間に入った南泉普願が、らちが明かないので、猫を切り捨てたという逸話によるものだそうだ。
 図録には「ただし、この逸話が我執への囚われと親切ゆえの殺生という過ちに満ちていることから、「老師も含め、すべてを切り捨てよ」という意表を突く解釈を仙厓はつけ加えている」とある。
 正直、「かわいい江戸絵画展」で見た絵との、あまりの違いにショックをうけた。あちらでは竹にじゃれる虎の《竹虎図》、袋をかぶっている猫を子供がはやしたてる《猫に紙袋図》、そんな絵が印象的だったのだ。
 ショックだったのは、そんな殺生の絵が図版やチラシなどに使われていることもあった。それも刃物は見えない、ただ南泉老師のおこった顔と、つままれた猫だけなので、ともするとかわいいとすら見えてしまう…。いや、後だしジャンケンのようだが、実はチラシで最初に見て、かわいいとは思わなかった。それは老師の怖いような顔のせいもあっただろうけれど、猫の表情が、どことなくかわいさとは離れてみえたからなのだ。おびえているとまではいかない。稚拙とさえみえるのびのびとした筆致はいつものとおりだ。だがかつてみた虎たちのような柔らかさがない。背景をしってみると、それは猫のおびえだったのかもしれないと合点がゆくようでもあるのだけれど…、そういいきれない、なにか負のイメージが猫から漂っているのだ。
 ショックはわたしの見方の甘さを思い知らされたことにもよるだろう。だが仙厓は、猫を切り捨てたことを決して肯定していない。それならいっそ、その場にいた全員を切り捨てるべきだといっている。そのことを…なんといっていいのか、わたしは教義はわからないが、けれどもどちらかといえば肯定したい。そんな風には思った。

 ともかくここには、手放しで、すっと入ってゆけるような絵がほとんどない。その奥にあるだろう、禅の思想が、絵ばかりではなく、言葉とともに、書(描)かれた作品が殆どだ。だから言葉を読む。そして言葉と絵と合わせて眺める。この行為のなかで、禅の知識がないと…と始終針をつきたてられるようで、なんとなくしり込みしてしまう。

 だから言葉がすくないもの…、《狗子画讃》のやわらかい、やさしい犬の子の表情─言葉は“きゃんきゃん”のみ─に出会うとほっとしたりする。だがこれも「趙州犬子」の物語に基づいたものだという。子犬にも仏性はあるか?ない、そしてある。無と有を超えて、云々。犬はよくみると、木杭に紐でつながれている。これも迷いのさなかにあるわたしたちの象徴であるという…。

 どこか、見る目が、宙ぶらりんになってゆく。親しめない、入ってゆけない、入ってゆきたい…。かつての彼らとの隔たりを感じる疎外感。

(続く)




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