Nicotto Town



I am (not) Original


これは創作をしていて思った事。

否。

私は一度たりとも創作などできたためしはない。
(自己否定)
∴創作という表現は間違っていると思われる。
(自己嫌悪)
なぜなら、そのソースのすべてが既存していたのだから。
(自己消失)


私は物語を書いている。

すべては私の妄想による戯曲だ。

否。
だった。
と、いう方が正しい。
私は、それを容認しなかっただけに過ぎない。
これは、時制的観点の遷移、変化だが、意味合い的にはただの自己否定だと思う。

私は一文を書き、読みかけの続きに取り掛かった。と、想像していただきたい。
そこには、今自分が記した表現があった。と、しよう。
時制的には、書いてから、その存在を認知したのだから、私の書いた表現は私の創作である。

が、何かの手違いによって、それが商品的価値を帯びた。と、するならば、
(これは理想的甘美な妄想である)
これは明らかに著作権に抵触するに違いない。
ここで重要なのは、時制的にみてより古い方が優勢である。

日ごろの行い(実際には多分に罪深き数々の所業)も相まって幸運(?)にも、黙殺され問題にはならなかった。
めでたしめでたし。


ここで問題となる(と思う)のは、表現に創作、などというものがあるのか?
ということ、だ。
(ここで著作権法は法律は詳しくないし、助かる事より煩わしいことの方が実感性が強いので、問題としない)

先ず単語は創作したものではない。形容詞も然り。
(よくやっている?けれど)
そもそも日本語という言語も、もちろんそうだ。
時勢で表現が変化するし、地域などで独自表現があるが、とりあえず標準語の定義にの則っている(?)ものを使用している(つもり)。

だから創作性はない。とは言わないけれど、一定の法則に従ったもので
(というか、そうでなければ言語というか意思疎通に用いることなどできないだろう。
独自?記号を用いて言語的なものを作ろうとした事もあるが、すごく面倒だった。言語学とかやったことはないし、日本語だってまともに勉学した試は実感としてはない。
その時点で私が用いてる言語が日本語であるかどうか怪しいものだw)
単なる組み合わせに過ぎない。

そう、これは組み換えを行っているに過ぎない。
創作と呼ぶそれは、単なる既知情報表現の組み換えを行っているだけだ。
想像は実在する。あるいは実在できる。
なぜならば、それは事象の組み合わせの想定の範囲だから。

想像を絶するというのは、それは想像すらできない。というのが実際のところに違いない。
人智の及ぶ外側にあるものだ。
それは、表することなどできはしない。
規格外だからだ。

しかし、だとするならば、模倣はどこまで許される(べき)だろうか?
私の想像(創造)が、何かしらの無意識模倣であるとすれば、意識的模倣でも同じであろう。
(そもそもここには模倣は悪であるという概念がある。きっと著作権という概念の所為だ)

もとは忘れたが、物語には一定の法則があるという。(らしい)
(物語というぐらいだから、もうきっと規格化されているに違いない。0と1では理解は困難なのだから)

∴これは自己満足しているだけなのだろう。

既存の法則性に則った劣化(あるいはまずないが優化)コピィを再現しているに過ぎない。
自分なりに編集し直しているに過ぎない。
あえてこれを、編化、などと呼んでみよう。

それは編化であって創作ではない。
無意味で、不毛な自己満足だ。
有意義性もない。

そして、おそらくそれは私自身だ。
∴I am not original.




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