Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


大野麥風展


 「大野麥風展」(二〇一三年七月二七日─九月二十三日)に出かけてきた。東京駅にある、東京ステーションギャラリー。サブタイトルは「大日本魚類画集」と博物画にみる魚たち。
 どこかで…JRのどこかの駅…たしか両国の江戸東京博物館にいったときとか、新宿駅でとか、ともかく美術館にでかけたときだ、魚の絵のポスターに、ふと目がいった。ふぐが数匹、海のなか、サンゴの手前で泳いでいる。ポスターでは、実際はどうなのかわからない。印刷されたものと、実物では、やはりオーラがちがうから。この作品はもとは版画だというが、版画でもそうだ。つくられた時の熱をはなつ版画と、印刷でたたずまいがちがう。だから、あまりあてにしてはいけないが、糸口ぐらいにはなる。
 ちなみに、展覧会がおわったあとに買う絵ハガキ、あれもオリジナルとは別物だけれど、オリジナルをみた時の感動をおもいだすよすがになる。わたしはそのために絵ハガキなどを買っている。思い出のために。旅のお土産のように。
 さて大野麥風…もしかして出会いがあるかもしれない…。後日、新聞で紹介する記事をみつけて、あのふぐのポスターを思い出しながら、思ったので、出かけた。先週に引き続いて、けれども今度は金曜日だ。次の日の朝はまたバイトだ。仕事にはさまれて、非日常がわきあがってくるだろうか。くもり空のせいか、だいぶ夏らしさがうすれてきている。ときたま太陽が顔をだす。じりじりとした、太陽の実感のような肌をさす感じが弱まっている。家から最寄駅までの間だけ、日差しにさらされるだけなので(美術館は駅舎内にあるはずだ)、いつもよりも日差し対策が少ない。それをどこかさびしく思う。
 さて、東京駅。丸ノ内線を使った。美術館は丸の内北口改札前。ただし丸ノ内線からだと階が違うので、わかりづらい。道順案内などもなく、掲示してある地図にも書いていないので、近くにいるはずだったが、迷ってしまう。JRの案内窓口で聞く。「もう終了しているはずですが…」と、とんでもないことを言われた。「え、まだ一週間あるはずなのですが」と言うと、別の人に確認をとってから、「失礼しました」と、道順を教えてくれた。すこしいった先の階段を上って、ほとんどすぐだった。ドームの端に入口がある。
 東京ステーションギャラリーは二〇〇六年から改修工事にはいっていて、再開業したのが二〇一二年一〇月だという。ほぼ一年前だ。わたしがかつて出かけたのは、それ以前ということになる。入口も変わっていたのだろうか、覚えがなかった。
 さて展覧会。HPから、簡単な紹介を。
 「日本画家 大野麥風(ばくふう、一八八八─一九七六年)は、一九三七年に出版された代表作「大日本魚類画集」で、原画を担当し、「原色木版二百度手摺り」といわれる色鮮やかな木版画集を生み出しました。本展では、魚を細かに観察して作られた「大日本魚類画集」全七二点といきいきとした魚類や国内外の風景、愛らしい小動物などを描いた大野麥風の作品を展覧いたします。」
 実際に見て、気付いたことがある。大野麥風が動物を描いていること、そして最初にポスターが目にとまったこと、このことで、わたしはニコ・ピロスマニを思い出していたのだということを。二〇〇八年、やはり秋のことだった。白いクマの親子たち。暗さのなかに、やさしい悲鳴のような母クマの顔…。それがポスターになっていた。あるいは電車の中で、小さなテレビ画面で、そのポスターになった絵を使って、宣伝をしていた。母熊が、そっと小熊を口でくわえて、もちあげるような動きがつけられていた。それらがどこか心にささったこともきっかけで、「青春のロシア・アヴァンギャルド展」にいったこと…。
 今、当時の図録をめくっている。わたしはどんなに、ピロスマニが好きだったか、と図録をみながら、痛切に思った。いまもすきだが、オリジナルをみたのはそのとき(三回みにいったが)だけだ。図録は絵ハガキと同じ、よすがでしかない。けれども当時の絵のはなった息遣いを、こうして思い出すことができる…。
 ともかく、ピロスマニの絵のポスターもきっかけとなって、出会うこととなった、そのときの衝撃を、どこかで期待していたのだと、大野麥風展で、魚たちをみていて思い至ったのだ。ピロスマニのかわりなどいはしない。
 あるいはウサギやリス、モズをえがいた作品をみて(展覧会のなかで、魚以外の大野麥風の作品は、ほんのわずかだ)、奥村土牛や、速水御舟の書いた動物の絵をみるときの心のざわめきを思い出したりした。さらに、魚たちを描いた版画や、掛け軸となった絹本彩色作品では若冲を…。「動植綵絵」の貝や魚たちにはじめて出会ったときの…。
 なんだか、大野麥風にもうしわけないようだが、わたしがなにを求めて展覧会にきたのか、わかったようなきがした。彼らとの邂逅のおりの感動、彼らの絵との大切な関係を、大野麥風展でも、味わえるのでは、あるいは彼らの一員になってくれるのでは、そうした期待が心のどこかにあったのだと、痛感させられたのだった。
 そう、大野麥風、個人については…。微妙である。共鳴のさざなみは、あるにはあった。彼の魚の絵に、海をかんじた。水をかんじた。およぐ姿が、幻想として、絵からつたわってくるようでもあった。それは水族館でみる魚よりも、幻想へのリアルな道筋なのだと思った。カレイやオコゼが海底の砂にうまっているときの、砂の感触がつたわってくる。 だが、ピロスマニ、若冲、おふねさん、つちうしくん(と、勝手に呼んでいる)、彼らとの出会いのあとでは、どうしても、もうしわけないが、なにか、わたしにはいってくるものがすくないのだ。

 それでも 展覧会にきてよかったと思う。去年バーン=ジョーンズ展で味わった、がっかり感はない。と、なにか比べてばかりで、妙な感想になってしまっているが。
 そう、先にも書いたけれど、東京ステーションギャラリーにきたのは久しぶりだ。最後にいったのはおそらく十年以上前ではなかったか。レンガの中の素敵な美術館。レンガは美術館のなかで、階段を下りるときに出現した。やわらかい、やさしい赤だ。おもわず、壁にさわりたくなるが、壁にさわるのはご遠慮ください、なので、みつめて、雰囲気を感じる。それだけでも、時代をへてきたレンガのぬくもりがつたわってくるようだった。
 美術館を出て、赤レンガの北口、ドーム内にまたもどってきた。上を見上げると、以前よりも装飾が豪華になった気がした。特に天井のあたり。レリーフや鳥の羽根のような彫刻。天使かと思ったけれど、あとで調べたらどうやら鷲らしい。
 そして昔、この東京駅、ステーションホテル内にある「カメリア」というバーで、マティーニを飲んだことも思い出す。マホガニーかオーク、木をふんだんにつかった、おちついた雰囲気のバー。もう亡くなってしまった恋人に連れていってもらったのだった。
 なにか、ほかの思い出ばかり、うかんできてしまう、不思議な展覧会といえば、展覧会ではあった。(続く)




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