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うみきょんの どこにもあってここにいない


琳派・若冲と花鳥風月展 その2


「所蔵作品展 琳派・若冲と花鳥風月展」(千葉市美術館、八月二十七日~九月二十三日)。続き

 駅から美術館まで、徒歩十分とあるが、徒歩十五分ぐらいだろうか。ふるい建物をつつむ形で建てられた複合施設。美術館のほか、市役所、図書館なども入っている。ふるい建物は、旧川崎銀行千葉支店のものだとか。花崗岩や大理石のネオ・ルネサンス様式。円柱が何本もならび、重厚な面持ちだ。ここをちらっと見て、美術館のある八階・七階へ。
 展覧会HPから(http://www.ccma-net.jp/exhibition_01.html)。
「 花鳥風月とは自然の美しさであり、美しい自然を愛する文化です。古くから美術は花鳥風月をかたちに表してきました。
「花鳥」の花は植物全般、鳥は動物全般を代表し、生命を象徴するものです。唐時代の中国で成立した花鳥画は日本の四季の中で育まれ、近世日本絵画で大きく花開きました。日本美術の装飾性をよく表す琳派や伊藤若冲は花鳥画に多くの優品を残しています。「花鳥」に対して「風月」は天候、自然現象といえます。山水に象徴される宇宙の中に花鳥風月はあり、人の営みもありました。
 本展覧会は「四季」「花」「鳥」「風月」「山水」「人物」「琳派の版本」の七章構成で、千葉市美術館のコレクションから江戸時代の日本絵画を中心に花鳥風月を題材とした一二三点を展示します。」
 まだ実は頭が日常に傾いていた。絵たちがいまいち語りかけてこない。それでも一章「四季」にあった鈴木其一《芒野図屏風》(天保後期~嘉永期頃、千葉市美術館)。
 銀地に黒い芒が一面に。そしてへびのような白い靄があたりをながれている。どこかでこれを見たか、似た絵を見たことがあった。夜のなかで銀にひかる芒の満開。あるいは月に照らされた静けさ。芒はまっすぐに立っている。立ちながら、ゆらぎの空間を奏でている。銀は闇であり明りであった。その狭間でたつ芒に、しばし心が動かされた。
 そして若冲。まず《鷹図》(宝暦後期頃、紙本墨画、摘水軒記念文化振興財団)。墨で描かれた鷹。背中からとらえたもので、鷹は横顔を向けている。すこし全体的に長細いような気がするが、なめらかで、羽の質感が、墨の濃淡だけで描かれているというのに、手触りとして伝わってくるようだ。そして、鷹の表情、目のあたりが、若冲の鳥の目だと思った。たとえば彼の描く鶴や鶏などと同じ目をしている。そのことに、ほっとした。ひとりの画家に連綿とつたわる画風の一端を、この目でみれたことに、だったか。わたしはこの一人に共通した一本の線を追うのが好きだ。それは小説などでもそうだ。同じ作家の違う本のなかから、彼特有の線を、においをかぐ。それを感じるのが好きなのだ。だから気に入った作家のものはなるべく全部読もうとする。線のにおいをかぐために。
 ちなみにこの鷹をみて、北斎が描く鷹も思い出した。彼の鷹は若冲のとは違う。孤高なくせにどこか愛嬌がある。彼もまたわたしに大切な一本の線をみせつけてくれるのだった。
 若冲の《鶏図》(宝暦中・後期頃、紙本墨画、個人蔵)も墨で描かれたもの。鶏が、まっすぐこちらをむいているので、鶏冠や肉髯、首のあたりの毛で、なにか獅子のようにタテガミでもあるように見える。威嚇しながらこちらを見つめるその姿がどこかユーモラスで、しかもやはり若冲だ。すっとした肢体のむだのない動きの瞬間が感じられる。
 そして、チラシでも一部使われた、鶴たち、《旭日松鶴図》(宝暦五~六(一七五五~五六)年頃、絹本着色、摘水軒記念文化振興財団)。これも多分、ここでいつか見たことがあるものだった。赤い太陽に松。そして二羽の鶴。二羽のうち一羽は首をひねりすぎて、手前の一羽の胴体のあたりから、画面右ほうを見つめている。もう一羽は首をすっくとのばし、やはり、右側をむいている。いくぶん上のほうを。こうした違いが、二羽の対比として、効果を生んでるのかもしれない。そして二羽とも幾分細長すぎるきらいがある。ちょうど鷹がそうであったように。だがそれでいいのだと思わされてしまうのは、やはり白い羽や尾羽根の黒さの繊細さからかもしれないし、眼光の鋭さからかもしれない。いや松の葉の茂り、松の幹の、蛇の鱗のようなそれのあでやかさからくるのかもしれない、おそらくそれらすべてがあわさって、存在感をつきつけてくるのだった。そうしてこの絵は若冲のほかの絵、一本の線のうち、とくに「動植綵絵」のシリーズを思い出させてくれるものだった。わたしがはじめてみた若冲の動物たち。その当時の新鮮な出会いを、衝撃を、忘れていた奥底から、しみとおるように思い出させてくれたのだった。なんどもこの絵のまえに戻って、そして見つめる。目と、そして松の幹のうろこ模様に心ひかれる。ちなみにこの絵の隣に岡本秋暉の描いた若冲の模写の《鶴図》が展示されていた。元絵の写真が参考として横に掲げられていて、比べることができる。鳥の羽根の質感などはよく描かれていると思ったが。どこかが違う。どこがどう違うとは言い難いのだが、一本の線が見えない。いちばんわかりやすい違いは目だった。鶏や鷹とも共通する若冲のあの鋭いような人懐こいような眼ではない。もっと力がない。だからか、なんとなく絵にも力がないように思えるのだった。
 そしてさらに《月夜白梅図》(宝暦後期頃、絹本着色、個人蔵)。満月に白梅が雪かなにかのように小さく、たくさん、夢見るように咲いている。それらと枝が月でひかっているようだ。枝にところどころ青くひかるかたまり。おそらくラピスラズリの色だ。月によって照らされた幹が、うごめく生き物のように、青光りする。雪のような白梅の花のちらめき。今日はじめにこの絵をみたとき、涙がでそうになった。しろい輝きに心がひたされてゆく。そしてそのすぐ後で、例の日常の毒が、また押し寄せてきた。絵の前で、出来事を反芻するのだ。そうしちゃいけない、せっかくの絵に集中するのだ、そう思っても、また浮かんでしまう…だがそれも徐々に薄れていったのだが。おそらくこの絵は、今日の私にとって、究極の非日常だったのだ。だからこそ、日常に対して、否とつきつけてくれるために、もういちど日常を思い出させたように思う。浄化するために。目をそらすことなく、それらを見つめるために。この絵はそれほどに力をもっていたのだ。わたしにとって。だからこうした役を引き受けてくれた…。あとでそんな風に思った。
(続く)




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