Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


電車にのると、そこは…、おふねさん


 恵比寿駅につく。ここから山種美術館のほうへ歩く。美術館への道案内の標識やポスターなどが年々増えた気がする。聞く人が多いのだろうが、移転してから数年。こうしてこの地になじんでゆくのかもしれない。お堀端にあった頃もよかったが。
 さて『速水御舟 ─日本美術院の精鋭たち─』(二〇一三年八月十日─十月十四日)。 当時、官展とともに中心的な役割を果たしていた院展は岡倉天心の精神を引き継いだ横山大観、下村観山らを中心に一九一四(大正三)年に再興された。速水御舟は第一回目から再興院展に出品。この展覧会は、御舟の芸術の変遷を、再興院展という同じ舞台で活躍した画家たちとの関わりを中心に紹介したもの。下村観山、大観、今村紫紅、小茂田青樹、安田靫彦、前田青邨など。
 速水御舟(一八九四─一九三五)の絵は、その時々、画風が違う。そのことについて展覧会紹介などに、〈御舟の約四〇年という短い人生における画業は、伝統的な古典学習、新南画への傾倒、写実に基づく細密描写、そして象徴的な装飾様式へと変遷しました。一つの画風を築いては壊す連続は、型に捉われない作品を描き続けた、画家の意欲の表れといえるでしょう〉とある。
 そう、彼の絵を何枚か観て、その最初に知った頃、描かれた絵の各各の画風の違いに不思議さを覚えた。けれども別人が描いた、というのとはちがう。ぜんぜん違うのだけれど、なにかしら一本の線が通っている。その一本の線を追いたいと思わせる、強烈な、いや、静かな個性に惹かれたということもあっただろう。
 最初に観て、惹かれたのは、おそらく《春の宵》(昭和九年/一九三四年)だ。夜のなかで、幽霊のような桜が花びらを散らしている。痛々しいまで細い枝、幹、満開の花、夜の細すぎる、月の魔…、なんという幻想なのだろう…。たぶんそんな風に思ったと思う。そもそも、今回の展覧会に行こうと思ったきっかけは、この《春の宵》を、自宅のパソコンのスクリーン・セイバーでみたからだった。
 会場は、「第一章 再興日本美術院の誕生」として大観、下村観山、菱田春草などの展示から始まるが、その前に、一点だけ速水御舟《牡丹花(墨牡丹)》(一九三四(昭和九)年)の展示が。これも何回かここで観たことがあったが、墨をたらしこみ、その滲みで描いた花びらと、緑色の葉、この二色だけであでやかな牡丹の花を描いているのが、かつては印象的に感じたものだった。墨で、こんなに鮮やかさを描くことができるのだと。
 今回はそれと少し違う。最初にまず出会えてうれしく思った…、そしてたらしこみによる滲みという、かなり偶然の産物を、絵に取り入れていることに、たとえばシュールレアリストたちの行為を、そして写真家たちの行為に、思いをはせたのだ。自分で描く、書くという行為自体にもまた、少なからず意思とはちがうものから、紡ぎだされる美があるが──詩をつくるときもそうだ…意識して言葉を出そうとしている、そしてそれ以外からわいてきたような、そんな狭間での作業だから──、偶然と芸術家の筆の共同作業、あるいはそのぎりぎりの境界線が、作品なのだ、言葉にすればそんなことを墨の花びらをみて思った。
 そしてなんと幻想なのだと。わたしは幻想をどういった意味で使っているのだろう。それはここにありながら、ここでないものの総称だ。ここにありながら夢見るもの、それなしではいられない、つむがれた繊細な、なにかたちの出会いの場だ。それは非日常、異界であるといってもいい。




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