Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


水を求めるように


 このところ、絵画展に出かけていなかった。些細な日常的な事情による。よく出かけていた金曜日、以前よりもゆきずらくなっていたこと、疲れなど。
 電車に乗るのがおっくうになって…これは疲れた身体が感じることなのかもしれない。この一年半ぐらい、仕事で電車に乗るということがなくなった。最低でも週五日使っていたのに、その習慣がなくなった。今電車に乗るのは、たいてい休みの、それもほとんどが展覧会にゆくためだ。なら、旅行気分でいいだろう…と思ったのだが、電車のなかの話声がきになってしかたない。わたしが乗る時間はたいてい空いているが、話声がけっこうする。前に乗っていた、いわゆる通勤時間帯よりも多いのだろうか? そうかもしれないし、そうでないかもしれない。通勤時間帯だって、けれども、イヤホンやヘッドフォンからもれる音楽などが気になっていたではないか。
 それに電車賃…、まあいい。こうしたことは理由にはならない。本当に行きたいのなら、それでもなんでも行くはずだ。ただ疲れていたのかもしれない。
 やっとバイトの忙しさがひと段落した。たぶんそのせいだ。疲れが日常だらけの体をつくる。疲れがのしかかって、思考回路にもやをかける。それでも締切がある原稿はなんとか書いていたけれど(ありがたい話だ)、こころがしびれたように、非日常から遠のいているのを感じていた。執筆中、ことばをかいている自分が、自分でないような、ことばが、わたしが書いているにもかかわらず、だれか、べつの、しびれのむこうで、だれかが書いているような、どこか他人事になって感じられた…。
 本もよむ気がしなかった。すこしづつ古典を読んでいたのだけれど、こうした頭だと、はかどらない。いっそ小説のほうがいいかもしれない。物語世界にまぎれこみたくなる、牽引力がある小説のほうが。そう思っていた矢先、家人の借りた本を返しに、うちの近くの小さな図書館に出かけた。できてわりと間がないのだけれど、名前もまちかど図書室というぐらいの、小さな図書館。だからあまり借りたいものはないだろうと思って、利用していなかった。
 けれども、返しにいったついでに、ざっとみてみる。今読んでいる古典の本、まったく同じものがあるのにほほ笑む。そして外国文学のコーナー。『リスボンへの夜行列車』(パスカル・メルシェ、早川書房)が眼にとまる。
 まだ読んでいる途中だけれど、かなり惹かれる本だ。古典文献学(ラテン語、ヘブライ語、ギリシャ語)の教師である主人公ライムント・グレゴリウス。彼は謎の女に出会い(この女はきっかけにすぎない、すぐに退場する)、彼女の話したポルトガル語の響きに誘われ、入った古書店で、ポルトガル語で書かれた一冊の本に出会う。「我々が我々のなかにあるもののほんの一部分を生きることしかできないのなら残りはどうなるのだろう」…。『言葉の金細工師』という美しい詩的なタイトルの本。彼は著者アマデウ・デ・プラドを求めて、教職、それまでの人生をすべてなげうって、スイスから、リスボンへの夜行列車に飛び乗り、本の著者の軌跡をたどってゆく…。
 本の著者の生きざまをたずねることが、本をわがものとして吸収する、たったひとつの…。いや、ちがう。グレゴリウスとプラドはまったく違う人生を歩んできたが、主人公は圧倒的に共感する。それは日常と非日常をくっつけようとするようにもみえる。あるいはほんの一部分とその残り。グレゴリウスとプラドは、ほとんど同じ人物の。べつの生き方であるかのように似通っている。グレゴリウスが日常で、プラドがグレゴリウスにとっては非日常で。
 そんな距離を縮めるために、彼はリスボンへやってきた。ほとんどわからないポルトガル語、だからこそ、異国的な力で、彼を魅了した、言葉の国へ。
 わたしは主人公ほどはプラドに惹かれない。すべてをなげうって、圧倒的に、というほどには。けれども、主人公の行為、そしてやはりプラドに(同じことかもしれないが)、共感する。言葉を慎重に、大切に、宝物のように扱う二人に。言葉を汚さないために、行動する彼らに。
 本の貸し出し期限は二週間。二段組みで五百頁近い単行本だから、最近の読書ペースだと二週間では読み切れないのではと思ったけれど、五日間で残り八十頁を切った。このペースだと大丈夫、というか、たぶんこの本は、手元に残したいから、近く買うことになるだろう。
 この五日間で、少しずつ、変化が起こって来た。化学反応というような。執筆、創作中の、そのときの言葉が、まだまだもやがかっている、他人事なのだけれど、それでもすこしずつ、わたしに歩みよってきてくれつつあるような感覚。
 そして。ふとパソコンのデスクトップの背景を変えてみたくなった。北斎好きだけれど、パソコンには合わない気がして、ずっとしようと思ったことがなかったなと、ためしにいろいろ変えてみた。おもに冨嶽三十六景。意外に落ち着くので楽しかった。今は結局アカフジに落ち着く。水が好きなので、波や海を描いたものかと思ったが、アカフジの圧倒的な静謐、そしてむらがる白い雲のたたずまいに深淵を感じて。
 たぶん、『リスボンへの夜行列車』のおかげなのだ。わたしにまた電車に乗って、美術館にゆきたいと思わせてくれたのは。
 アカフジもなにかを手伝っていた。そしてスクリーンセイバー。今スクリーンセイバーは、わたしの好きな絵たちのスライドショーになっている。そのなかの一枚が速水御舟だ。スクリーンセイバーをぼんやりながめていたら、速水御舟の絵になった。ああ、この絵がまた見たいなあ…印刷されたものと、実物はやっぱり全然違うからなあ…、そうぼんやりと思い、ふと、そういえば山種美術館で、今、速水御舟展をやったいたのではなかったかと思い出す。
 そう、例の体が疲れていたときに展覧会のこと、知ったのだったが、その時は、おそらく殆ど前に観たものばかりだろうから、行かなくても…と思ったものだった。正確には『再興院展100年記念 速水御舟─日本美術院の精鋭たち─』(二〇一三年八月十日~十月十四日)という企画展覧会。いや、そうだ、今回は、横山大観とかの作品も多いのだろう、だったら彼の作品、あまり好きでないし、速水御舟のものは、見たものばっかだろうし、いいかなと思っていたのだった。
 けれどものどが渇いて、水をもとめるように、スクリーンセイバーの御舟さん(と親しをこめて勝手にそう呼んでいる。“ぎょしゅう”ではなく“おふねさん”だ。)を観ているうち、かれの作品、たとえ以前観たものであろうとも、なにがなんでも、いかなければならないのでは…そんな思いが身体をつつみだしたのだった。
 それが木曜だった。パソコンでまた展覧会情報をしらべる。出品リストもみてみる。御舟さん作品は、看板となるだけあってかなり多い。菱田春草、下村観山…。どこかほかの展覧会でみて、ひかれた画家ではなかったか。
 水をもとめるように、日常から飛び出し、彼らの声を体にひびかせるために。で、金曜日、出かけることにしたのだった。
 (続きは後日)




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