Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


蓮のおわりのはじまり、きれいはきたない泥の花 2


 目の前の花の初めての対面のなかで、若冲の《蓮池図》が、記憶のどこかでざわめいていた。昔の日記から。
 「こちらはもともと襖絵だったものを、六幅の掛軸にしたもの。むかって右の二枚に蕾や満開の蓮が描かれ、真ん中の二枚に、葉ばかりが描かれている。そして最後の二枚が、葉も花も枯れたもので、まるでゴーギャンの《我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか》が人の一生を描いているように、ここでは蓮の一生が描かれている。そこには生というよりも死が見える。そして、荒涼とした、さびしさに圧倒される。六枚とも画面の下方に描かれてあり、画面上は何もない。その白さ(実際は歳月のぬった色、つまりセピアになっているのだが)のはなつ空虚さにくぎ付けになった。襖絵であっただけに、画面も大きい。なおさら空しさのようなものがひろがっていった。それはとてもさびしい。そして痛い。かれた葉のぬるぬるとした感触がつたわってくる。あるいはそこにあるのは生をふくめた死だった。花のおちたそれは、実をつけていたのだから。」(二〇一〇年六月六日)
 目の前の蓮は、ちょうど見ごろを迎えた時期だったが、開いた花のほか、つぼみ、葉の上におちた花びら、花托だけになったものたちが、近い場所に同時に存在していた。花托だけのものも、まだ緑色で、わかわかしいものではあったけれど。そう、それで《蓮池図》を思い出したのだ。蓮の一生が凝縮のように目の前で差し出されていたから。けれどもそれは、朝だからか、それでもまだ花の見ごろの時期だったからか、どろどろとした腐敗の感触はほとんどかんじられなかった。まるでポジばかりでかためたネガのようだった。あるいは琳派の描く鮮やかな死。
 どろどろの腐敗…かれた葉がくさり、茶色い水のなかで、ほとんど枯れ葉めいた葉や茎とけている。そして茶色の花托だけがすっくと立っている。あたり一面、荒涼とした…あれはいつみたのだろう? 秋だったか冬の、おそらく不忍池の景だ。
 わたしはその景をどちらかといえばあたためていた。泥から生えて、清冽な花を咲かす蓮の花、その蓮のうつくしい部分のほうを、ながらく欠如して記憶していたのだった。
 それが、今日、おおむねうつくしい時間の流れをそこにみたのだった。水や葉におちた花びらも、さかずきか、中華料理で使うレンゲのように、陶器めいて、清らかだった。葉におちた露が、ぎりぎり残っている。朝もっと早かったら、もっと宝石めいて、あちこちに、ふるえながら残っていただろう。そして桃色の明るい花、花びらの中に、黄緑色の花托。そう、花托ははなから茶色ではなかったのだ。黄緑のわかわかしい、花がおわってもしばらくはその色の、春のような、若草色の、終わりの始まり。
 古代蓮池をすぎると、水生植物園、水鳥の池、オニバス、キバナハスの池になる。ほたるの川という場所もあった。
 水生植物園には、スイレンもあった。こちらも今が花季なのだろうか。あちこちで咲いている。水がすきだから、水辺に、水面に咲く花が好きなのだろうか。睡蓮も好きな花だ。あるいはモネのそれだからか。おそらくそれらがからみあって、すきな花なのだろう。だが水生植物園の水は、赤い藻が発生していて、あまり景的にはうつくしくない。赤潮のような藻のなかで、それでも花ひらく睡蓮の、その花びらたちは硬い宝石のようで、心にひびいた。それはネガばかりのなかにひらいたポジとしての開花だった。
 どろどろのなかに、鮮烈に色をはなつ水面の、それは今回に限っていえば蓮ではなく、睡蓮だった。どちらも、水辺の花として、印象深いものだったが。
 水鳥の池のほうにも、行田蓮が咲いている。こちらのほうが、ひとけがすくない。ひとけがすくないほうが、朝の感覚がのこっているようなきがする。朝まだはやき…。もうそろそろ十時近いが、早朝というのは、ひとが少ないから。水鳥はちなみにいなかった。そのかわりに牛ガエルたちが、かまびすしい。池にも、たくさん牛ガエルであろう、大きなオタマジャクシたちがいた。なつかしい、めずらしい。小学生の頃、近所の川でつかまえたことがあったなとぼんやり思う。牛ガエル自体は、今もうちの近くでたまに声を聞くが、これほど盛んに聞いたことはなかった。モウモウだったか、ボウボウ、ゴウゴウだったか。くぐもった、夏のおもたいけざやかさだ。
 ひととおり廻ったあと、食事しがてら、会場入り口へ。物産などもみてまわり、買う。土産などを見ると、すこし心がはしゃぐのはなぜだろう? 子供の頃のように。それはどこか未知のであいを含んでいる。あるいは、日常的な買い物とは一線を画している。たとえそこに野菜がうっていたとしても、それは土地の物産なのだ。子供の頃に感じたそれは、未知だった。土産物屋は、おもちゃ屋のように、現実ではなかった。子供の頃の記憶が郷愁として、土産物屋に、まとわりついているのだろうか。それもあるかもしれない。だがどちらも、非日常的な空間を、日常の中に、置いている、そのことによってひかれるのだろう。
 その後で、埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)へ行った。国宝「金錯銘鉄剣」の出土した前方後円墳の稲荷山古墳や、日本最大の規模を誇る円墳など九基の大型古墳があるところ。「県立さきたま史跡の博物館」などもある。
 、古墳があるあたりは、さきたま古墳公園として、整備されている。わたしは古墳時代などには、あまり触手がわかないのだけれども、あたりの空気というのだろうか、印象というのだろうか、公園のなかだけ、異質なのがわかった。おだやかで、おもい。おもさがここちよい、祈りだった。それは奈良の飛鳥にどこか似ている。
 この古墳のある公園にも池があり、古代行田蓮が咲いている。といってももうお昼もだいぶ過ぎているので、花はとじていたのだが。さきほどの古代蓮の里とちがって、こちらの蓮池は静かだ。観光客もほとんどいない。
 つぼみ、花托、おちた花びら。また蓮の一生を探してしまう。というより、目につくのだ。朝よりも晴れてきた。蓮はますます花をとじている。来年もまた、ラベンダーや彼岸花のように、見に来るだろうか。泥からさく蓮の花、きれいはきたない蓮の花。ますます日差しが強くなってきた。




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