歴史認識というデタラメ言葉
- カテゴリ:ニュース
- 2013/06/05 01:00:53
ニュースで良くみるものの、
誰も異議を唱えていない不思議な言葉、
それが「歴史認識」です。
れこは文系の知識体系であります。
歴史については教養程度は学んできたと思っています。
そのれこにして、
「歴史認識」という言葉を聞いたことがありません。
もしかしたられこの不明なのかもしれませんが、
あまりにも不自然に最近使用されている感があります。
つまり、「昔は使用されていなかった」言葉です。
歴史を学ぶ人はこの言葉をどのように考えるでしょうか?
自分としては、この言葉に「歴史の否定」を含むように思われます。
これは歴史家の言葉ではない、
政治家やアジテーター(扇動家)の言葉であるかのようです。
歴史家、歴史を研究するもの、歴史を綴る者の基本的立場は
「自分の主観を入れない」であります。
従って「認識」などないのです。
私の解釈ではこうだ、という認識をいれない、
それが東西の古今の歴史家の歴史に向かう立場であります。
完全に客観的な立場をとることはできないが、
出来る限り客観でありたい、という意味です。
そもそもある一つの歴史事象に対して一つの歴史認識(変な言葉!)が
あるというのは間違いです。
ある国の英雄は他の国では侵略者であります。
近現代史を使わなくても
忠臣蔵を例にあげても良いでしょう。
吉良上野介という悪役は日本国民の中で殆どの人の
悪役でありますが、彼が治めた土地での評判は良いと言われています。
彼の領民は吉良上野介を良い人であると思うでしょう。
一人の人の評価は人により異なるのです。
従って、歴史事実はあっても、歴史認識はありえません。
自分からみれば、「歴史認識」という言葉を使う人々は
むしろ「歴史」を語る権利のない人にみえます。
この言葉を頻出で使う国を知っています。
そしてそのお国では、統治者が変わればあからさまに
「歴史」自体が変わる国です。
その国では歴史家はいないでしょう。
なぜなら歴史の資料は統治者が変わる度に
「なくなったり燃やされたり、意図的に捨てられたり」
したのですから。
夏目漱石の言葉で締めくくります。
「余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、善かつたと思つた」
歴史認識というのは政治用語なんじゃないでしょうか。
同時代の当事者がいる現在史はどうしても各国の思惑が入ってしまうため、それぞれの国が「この件についてはこのように認識している」と表明する場が生じることは避けられません。
つまり歴史に対する判断をあえて恣意的に行っていると。
そういう意味では歴史学者の見解とは一線を画すべきなのでしょうね。
ただ、その辺りの線引きを曖昧にしたまま「自分が事実と認識していることを主張すればいいのだ」みたいな政治家がたまに出てくるので混乱していると、そんなところではないでしょうか。
この用語が頻出する国は他国に自国のアイデンティティを依存している国家なんだろうと思います。
自国で確立できるのなら他国の「歴史認識」に目くじらをたてる必要もありませんから。
歴史家、歴史を研究するもの、歴史を綴る者の基本的立場は「自分の主観を入れない」であります。
↑ これは理想ですけど、未だに邪馬台国が何処にあったかというのは、研究者の主観ではないのでしょうか。
ですから、私は歴史学者っていうのは、そんなに信用は出来ないと思っています。
かなり前になりますが、考古学の第一人者が古代人の骨を発掘するのに行き詰まって、捏造しましたから。
それは別として、「歴史認識」というのは造語なのではないでしょうか。
この件に関しての異論はありません。その通りだと思います。
日本を悪役にしないと、国を統治できないという。
しかも、それを世界に広めようとか。馬鹿馬鹿しいけど、対策を早急にしないととんでも無い事になりますよ。
ちなみに、「性奴隷」というのも造語じゃないのかな。
「歴史認識」って良く耳にします。何気なく聞いていましたが
なるほど、歴史を専門にされる方からすれば違和感のある言葉なのでしょうか。
たしかに・・・歴史をどう認識するか・・・なんて変ですね。
何が起こったのか、どのような道筋を辿ったのか、人々はどう考えてどう行動したのか
そこには一つの事実しか存在しないのに。
認識という言葉を使うと“嘘の歴史認識”をもまかり通らせてしまうような気もしてきます。
勉強になりました。
・・・・・・・でも、どこかで使っちゃうかも・・