Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


場に咲く花を言葉が縁だ─『異界を旅する能』他2


 本題…。だったのだろうか。実はすこし前にいった「かわいい江戸絵画展」、府中市美術館のミュージアム・ショップで『異界を旅する能』(安田登、ちくま文庫)を見つけた。「異界」という言葉にまず惹かれた。ちょうど展覧会という異界から出てきたばかりだったし、そこでこうした題名に出会うということは、非日常からの啓示か符牒のようだった。
 これはワキ方の能楽師である著者がワキから見た能世界を綴った能案内、紹介、入門書といっていいかもしれないが、異界という非日常をワキ的に生きることで、わたしたちも出没させようという、異界への誘いとしても読める(私はそう読んだ)。
 わたしは恥ずかしながら能をほとんど知らないできた。能は概ね、現在能と夢幻能にわかれるそうだ。現在能は、歴史的な人物等の時間に沿った物語、そして夢幻能は神や亡霊、鬼の話、こちらが特に異界的。夢幻能の典型的なものを書いてみる。ワキ(多くは僧等の旅人)が、ある場(名跡、歌に詠まれた場所が多い)で、シテである女性に出会う。シテとワキはその土地にまつわる物語などをするうち、いつしかシテが、その話の中で語られた人物になってゆく。次に登場したときは、女性は本来の姿(亡霊など)として、物語を語り、舞を舞う…。
 この設定に、昔話のある型、見知らぬ館という中間地点で、非日常の喩である美女と日常の喩である村人がひととき出会うというそれを思い浮かべてしまうが、つまりシテは非日常そのもので、ワキは日常の縁(脇)にいるものなのだ。ワキはシテが登場すると、殆ど舞台の脇に座ったままで、何もしない存在と化す。このことから脇役と関連づけられてしまうことも多いが、そうではない。本来「脇」は〈古語で言えば〈分く〉というのが原義だ。(中略)ワキとは「分ける」人であり、そして「分からせる」人なのだ〉、とある。分からせるとは、通常なら通り過ぎてしまうような「場」を、非日常の場として、わたしたちに分からせてくれる存在という意味、そして「分ける」とは、多くはシテの残痕の、ぐちゃぐちゃになった思いを、解きほぐし、「分け」、再統合する、ということだ。
 ワキは多くは「諸国一見の僧」等、名前を持たない、無名の存在である。そのワキがどうして、「場」に出会う旅、異界をめぐることができるのか…、そのことについて語られてゆく。詳しくはぜひ本書を読んでもらいたいのだれど、この異界というのは非日常、ハレとケの「晴れ」の時間だ。日常ばかりになってしまうと、〈日常の「褻(ケ)」と浮遊の「離れ(ガレ)」で「穢れ」となる。そんな穢れを祓うのが、「晴れ」の日だ。「祓う」と「晴れ」は同源の言葉だろう〉と語られ、「晴れ」という非日常と出会うことの大切さに言及されている。昔なら盆(先祖の霊と出会う時間)、暮れ、正月、お祭り…そして、「場」だ。この場は、もしかして通り過ぎてしまうかもしれないところだ。能でも、舞台となる場は、村の人たちにとっては、何も起こらない。けれども縁を行く彼だけが、亡霊と出会う場となる、〈そのような「場」に出会える人こそが能のワキである〉のだった。
 ワキがどうして出会えるのか。日常と非日常を、此岸と彼岸をつなぐ存在であるのか。それは彼が自らを主張しない、無力な無名の存在(殆ど透明な存在)であるから、そして旅をするものであるからだとある。この旅というのが、歌にかかわってくる。場の多くが名所旧跡で、「歌枕」と呼ばれる場所だということ。昔、歌枕を通る時、旅人は歌を詠まなければならなかった。鎮魂のためでもあるが、そこが「聖地」でもあったからだ。
 …わたしはこの本を、ワキという存在を、詩人に引き寄せて読んでいる、そして紹介している。彼の旅は深淵を覗いた者のそれであり、境界を行くもののそれである。自分を無用の存在とすることで、ワキという縁、つなぐものとして在ることができる…。詩人との共通点は、この無が、詩の言葉とかかわっているからでもある。詩の言葉は自分を主張することがないから。そして歌の存在だ。能舞台は〈懸詞を多用した独特の文体で観客を非現実の世界に引き込んでいく〉。〈掛詞による無限連鎖文章作法〉が主語を変化させ、過去の時間を存在させる。例えばワキの僧に出会ったのは、土地の娘だった筈なのに、いつしか歌枕ゆかりの過去の亡霊となっているといったことだ。〈掛詞が繋ぐのは、前と後の語だが、これはいわばこの世とあの世、日常世界と異界とを結ぶ働きであると言っていい〉。掛詞の例も詳しくあげたいが、こうした散文で書くと、凝縮である掛詞から沢山の事が出てくるから、結構な分量になってしまうので、それは避けたい。〈能の文章は現代語に訳されることを拒否する。現代語は論理的に書かれるから〉とあるのも、そうしたことと関連している。あるいは詩が、それでもやはり凝縮の空間を作り上げることばたちであることとも。詩の言葉を散文に訳すことができないことと同じように。
 けれども何とか端折ってみる。能『定家』。式子内親王の歌を元歌とした「玉の緒よ、絶えなば絶えねながらへば、/忍ぶることの弱るなる、/心の秋の花薄、穂に出で初にし契りとて、/またかれがれの仲となりて、昔は物を思はざりし」…。「心の秋」が「心の飽き」にかかり、「かれがれの」が「枯れ枯れの」「離れ離れの」とかかる。そればかりではない、「秋」や「薄」が、別の和歌を喚起させ、ほんの数行で、舞台を重層的に作り上げてゆく。掛詞や縁語を多用した「歌語」は元々言葉に備わっている含蓄を、さらに拡大させ、〈記紀歌謡から万葉、古今、新古今を経て今に連なる連綿たる歌の歴史的記憶をその胎内に内在させ、ポンと歌の中に投げ込むだけで、その歴史的記憶を一瞬にして、今ここに開花させる力を持つ〉。
 本書後半では、ワキ的に異界を現出させた者として、松尾芭蕉、夏目漱石(主に『草枕』)を例に挙げ、わたしたちが異界に行くために、旅に出ること、旅の途中で、句や歌(詩)を読むことなどを勧めてもいる。旅は名所を巡るものとあるが、本来それは、異界と日々の縁ならば、どこにでもあるものだと思う。花一輪思わず咲いた場所、そこが場としてざわめくはずだと。縁は、あちこちで亀裂のように誘っていると思うのだ。

(続)







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