Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


場に咲く花を言葉が縁だ─『異界を旅する能』他1



 この頃、日本的なもののほうへ気持ちが傾いている。理由はいくつかあるかもしれないが、ぱっと思いつくのは北斎だ。北斎によって、浮世絵のよさを知った。触れられることができた。それまではどうも浮世絵は苦手だった。いいと思えなかったのだ。もっとも今も、浮世絵に関しては北斎以外のものにはあまり触手がうごかないけれど。
 そして若冲、酒井抱一など、江戸の画家たちの絵にもひかれるようになった…。
 そう、たとえば江戸時代。わたしは江戸時代には、それほど思い入れがなかった。なんとなく、身近な感じがあったからだと思う。日常では決してなかったが、日常的なもの。たとえば、わたしが子どもの時は、今よりももっとテレビで時代劇を放映していた。子供むけの番組でも、忍者ものとか多かったと思う。あるいは単に江戸(=東京)とよばれる場所に住んでいるからかもしれない。どこかでずっと、江戸的なものは、わたしの中で、日常と呼ばれるものを色濃く反映する言葉として、残っていったのだ。けっしてわたしがからみとられてしまわないように、のけておく日常、そちらに区分してしまったのが江戸という言葉だった。対になった非日常のほう、その対の均衡を保とうと(気をぬくと、それはすぐにバランスをくずしてしまうから)、日常の側にくくりつけていたのが、ちょんまげであり、高島田であり、サムライであった。
 わたしは知らなかっただけなのだ。浮世絵や、歌舞伎、浮世草紙、浄瑠璃…。江戸の人々の日常と密接につながった非日常たちに。かんざし、港外、根付…。そこには、わたしが求めていた、非日常の花が咲いていただろうに、ずっとないものだとおもって通り過ぎていたので、見えなかったのだ。
 ほかにも理由はあるかもしれないけれど。戦後だいぶたってからの生まれだから、それほどは顕著ではなかったけれど、まだ、どこかで古い日本的なものから目をそむけるという風潮も周りにはあったのではなかったか。日本ではなく、特にアメリカ的なもの、おおざっぱにいえば戦勝国的なニュアンスを含んだ外国のものがいいのだと。
 そういえば北斎も、多分、再び脚光をあびたのは、外国に認められたからでなかったか。…ちなみに、今それをすこしインターネットで検索して調べたら、やはり最初は十九世紀後半、日本の焼き物を輸出する際の詰めものにされていた『北斎漫画』をきっかけに、北斎はヨーロッパで評価されるようになったとあった。それ以後、肉筆画、浮世絵が、大量に輸出され、おそらく絶賛され…。フランスでは伝記本も十九世紀末にはもう出ていたらしい。ともかくそのことで、逆輸入されるように、日本で再評価されていった、そんな面もあったのだ。一九九八年にアメリカの『ライフ』誌が企画した「この一〇〇〇年間に偉大な業績をあげた世界の人物一〇〇人」で、日本人で唯一選ばれたのが北斎であるし。当時、日本でもニュースになったと記憶しているけれど、別に感慨はなかった。けれども、それからだいぶ経って。わたし自身、北斎好きになったきっかけは、パウル・クレーの展覧会で見た『北斎漫画』だった。クレーが模写したというそれ、そしてその美術館の常設展示にあった、北斎の浮世絵…。つまり逆輸入的な、誘いだった。

 話を戻すと、この頃、絵画などを見るのにも、江戸時代に限らず、日本的なもののほうに心ひかれるようになっている。新鮮である。わたしはそうか、今まで、外国に異国、異界、非日常を感じてきたのだと、ふと思い至る。エキゾチック。異国情緒。それこそが、日常に対となる均衡をになうものだった。最初は映画だった。父が古い時代のフランスやハリウッド映画を好きなこともあって、一九三〇年代から五〇年代、せいぜい七〇年代までのそれ…。おもに中学生の時だった、けれど二十代前半まで、むさぼるように見たものだった。そしてその原作となった小説を読むことからはじまって、翻訳小説へ…。あるいは映画『モンパルナスの灯』のモディリアニ、いや、映画そのものが、非日常だったから、それに近しいものたちは、すべて、非日常だった。
 そういえば映画も、北斎と同じように、小津安二郎監督『東京物語』のオマージュである、ヴィム・ヴェンダース監督『東京画』を見たのがきっかけで、小津にはまったことがあった。

(続く)




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