死について考えてみる
- カテゴリ:30代以上
- 2013/04/13 11:14:11
僕は一度も死んだことがないのでよくわからないのですが、死について書いてみようと思う。
まずはバックグラウンド。僕は小学生まで教会に母親に連れられていたのでキリスト教の影響を強くうけている。仏教は手塚治虫のブッダを読んだだけ。今は無宗教だけど、でもキリストもブッダも尊敬している。
死とは意識がなくなること。と定義している。いわゆる脳死。
死後の世界は無だと思う。自分の意識がこの世界から無くなるのだと思う。
生まれる前のことを覚えていないからそういうことだと思う。
生まれる前には自分の意識は無かったはずだし、死んだ後には自分の意識は無いのだと思う。
でも死への恐怖は人より少ないと思う。
まずはバックグラウンド。僕は小学生まで教会に母親に連れられていたのでキリスト教の影響を強くうけている。仏教は手塚治虫のブッダを読んだだけ。今は無宗教だけど、でもキリストもブッダも尊敬している。
死とは意識がなくなること。と定義している。いわゆる脳死。
死後の世界は無だと思う。自分の意識がこの世界から無くなるのだと思う。
生まれる前のことを覚えていないからそういうことだと思う。
生まれる前には自分の意識は無かったはずだし、死んだ後には自分の意識は無いのだと思う。
でも死への恐怖は人より少ないと思う。
これまた、あまり人には聞いたことが無いのでよく知らないのですが。
死とか「無」の認識の仕方がやや柔らかいんじゃないかな。
先ほどの「無くなる。」と書いたのは少し語弊があるのかもしれない。
僕は自分と周りの世界を2元論的にとらえることが多い。
自分。そして世界。
死とは自分の脳細胞のシナプスの動きがとまり、意識が停止する。そして肉体は地に戻ったり、火葬場の煙突から空に舞い上がっていく。これは世界に影響を与えることになる。
そして生きている間、友人と話したり、文章を書いたり、ブログを書いたり、歩いたり、自転車に乗ったり、誰かに見られたりすることで、僕は世界に影響を与えている。
僕は世界に影響を与え続ける。僕の考えたことや意識したことも、死んだ後も世界に影響を与えるだろう。僕は子供はいないけれど、子供のいる人はさらに大きな影響を残すことになる。
そして僕は世界になっていく。僕が死んでも僕の影響は残る。
僕は人類の祖先が相当な苦労をして来たことを知っているし、その苦労、その影響があるからこそこの世界があり自分が今生きていることを知っている。
彼らは僕の中で生きている。彼らがこの世界を構成している。と表現しても良いのかもしれない。
そうであれば、僕は死んでも僕は未来の世界で生きていく。と表現してもいいはずだ。
僕は死んでも死なない。
というと日本語表現上おかしくなるが、
一生懸命生ききることは、世界への影響を増やし、未来に生きることになると思う。
そして、これは論理的ではなく感覚的で霊的なのかもしれないが、自分の意識も、世界の意識の一部となって生きて行く気がして仕方ないのだ。だって世界があるからこそ僕らは生まれ、そして世界に帰っていくのだから。
死とか「無」の認識の仕方がやや柔らかいんじゃないかな。
先ほどの「無くなる。」と書いたのは少し語弊があるのかもしれない。
僕は自分と周りの世界を2元論的にとらえることが多い。
自分。そして世界。
死とは自分の脳細胞のシナプスの動きがとまり、意識が停止する。そして肉体は地に戻ったり、火葬場の煙突から空に舞い上がっていく。これは世界に影響を与えることになる。
そして生きている間、友人と話したり、文章を書いたり、ブログを書いたり、歩いたり、自転車に乗ったり、誰かに見られたりすることで、僕は世界に影響を与えている。
僕は世界に影響を与え続ける。僕の考えたことや意識したことも、死んだ後も世界に影響を与えるだろう。僕は子供はいないけれど、子供のいる人はさらに大きな影響を残すことになる。
そして僕は世界になっていく。僕が死んでも僕の影響は残る。
僕は人類の祖先が相当な苦労をして来たことを知っているし、その苦労、その影響があるからこそこの世界があり自分が今生きていることを知っている。
彼らは僕の中で生きている。彼らがこの世界を構成している。と表現しても良いのかもしれない。
そうであれば、僕は死んでも僕は未来の世界で生きていく。と表現してもいいはずだ。
僕は死んでも死なない。
というと日本語表現上おかしくなるが、
一生懸命生ききることは、世界への影響を増やし、未来に生きることになると思う。
そして、これは論理的ではなく感覚的で霊的なのかもしれないが、自分の意識も、世界の意識の一部となって生きて行く気がして仕方ないのだ。だって世界があるからこそ僕らは生まれ、そして世界に帰っていくのだから。
世界の意思みたいなものがあり、そこからぽこっと僕らの意識が生まれ、生きている間は2元論的に意思疎通は出来ないけど、死んだら、世界の意思に戻って行くような。
人は空に帰って行く。
天国で見守る。とか思い出の中で生きる。とかの表現も素敵ですよね。
ま、そんなこんなですが、実際、病気したり老いたりして死が近づいたら、それなりに死が怖くなるのかもしれません。僕、人間ですから。
じゃ、そんなこんなで。
ではでは。
人は空に帰って行く。
天国で見守る。とか思い出の中で生きる。とかの表現も素敵ですよね。
ま、そんなこんなですが、実際、病気したり老いたりして死が近づいたら、それなりに死が怖くなるのかもしれません。僕、人間ですから。
じゃ、そんなこんなで。
ではでは。
コメントありがとう。思想なんてそんなたいしたもんじゃありません。
ただの考え方程度じゃないかな。
蘇生の経験があるというのは、とても貴重というか珍しい経験ですね。
恐怖を和らげる物質があるというであれば、僕も少し安心です。
魂が次の修行の場で、来世の人生でも魂を得られるとしたら、ずっと修行ですね。
修行だらけってのは僕はちょっと。。。少しでも楽しみがほしいです。
死後の魂の記憶というのが世界の意識にとけ込むというのはまさに僕が言いたかったことです。
きれいな表現だと思いました。
ではでは。
ご訪問とコメント、ありがとうございました。
私の知らない思想を教えてくれて、ありがとうございます。
私は、とある病院で、ある検査結果を聞きました。
パニック発作を起こして、蘇生治療を受けたらしいです。
人の年齢と見かけから、良くない結果を告げてもOKと判断したらしいです。
そして、生き返った私に、「あなたは精神的に弱すぎると」告げました。
確かに、私は、精神的に弱いですが、医師の配慮不足だと思ってました。
蘇生した時、私はこれでおしまいなのと思いましたが、
幸い、死の直前に死の恐怖をやわらげるという物質が分泌されたらしく
ふわふわとした感じでした。
発作で気を失ってから蘇生までの記憶はありません。
死後の自分の魂の記憶は、世界の意識に溶け込み、
魂は、次の修行の場である、来世の人生まで待機すると、私は思っています。
追記:
死んだときに、又は死ぬ前に世界は理解できるか。という願望について。
前に神様は世界だ。っていうようなことを書いたけど。そのモデルと今回の死のモデルを合わせて考えると死んだら世界になる訳だから世界のことを全て理解しているというか、そのものになるわけです。
理解って言うのは、法則なり事実について、自分の頭の中にモデルを作るということだと思うんです。かつ時間要素が強く絡む。僕たちは理解するのに時間がかかるけど、神は時間に関わらず理解している。全知。であれば、死によって世界になる。そのモデルそのものになり、さらに時間を超えた存在になるというのであれば、理解よりも強い、ずっと知ってたことになるんじゃないかと。思い出す。っていうより、そのものになっちゃう。
これで答えになってますかね?
さすがです。
恥ずかしがり屋さんでも好奇心が旺盛ですよね。
眠りは怖くないのに死は怖いのはなぜでしょう。
眠るように死にたい気もします。
死にはなんだか強い痛みのイメージがあるんですよね。
でもおっしゃる通りで、ただの無意識。ともいえるのかもしれません。
そして原点への回帰。僕は世界へ吸収されるという表現をして、時間軸に沿った世界に帰るような表現をしたし、そういう文脈なのですが、本当に言いたかったのは死はアインシュタインの4次元的世界。時間も含めた世界に吸収されるようなことじゃないかなと。
ま、そういう4次元的世界で「意思」とはなんぞや。というと、ネットワーク的なものが何かを決めて行くということではなくて、時間も含めた世界・宇宙そのものなわけです。宇宙が生まれる前の世界は時間がないわけで、今は時間があるけど、それを包括した世界・宇宙。死はそこに戻ることじゃないかなと。
これは、もう僕たちは世界であるというようなことを言っている訳で。生きている間だけ、宇宙の中で、ちょっとだけ独立っぽい世界になっている。ってなかんじなわけです。
こういう議論。おもろいなー。
「夜と霧」早速Amazonでぽちっとしちゃいました。有名どころですよね。
以前から気になっていましたので、Good Proposalです!
スピリチュアル系には少し抵抗感があります。なんというか自分で自分の経験をもとに考えていきたいのです。
人間とは何か。については大きな疑問があります。なぜ、生態系の中で人類のみこれだけ突出した能力を進化によって得たのか。あまりにも近縁種であるチンパンジー類とは違いすぎないか。絶滅した人類に比べても文明・文化のレベルが高すぎる。
進化が突然変異と生き残りの戦略であったとしたら時間軸的に合わない気がするのです。
すいません。勝手にこちらの想いをぶつけました。
ではでは。
むかーしむかしに自我についてこんなブログ書いてました。くーやさんもコメントしてましたね。
http://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=691319&aid=26301293
これは肉体的な「自分」だと思います。
多分、ここでくーやさんの言っているのは、自分は意識も含めての自分だと思います。
このブログ書きながら意識って何だろう。って考えていました。
自分の手とか指の触覚や視覚も意識に影響する訳だから自分の定義に入れちゃっていいんじゃないかな。
内蔵とかも意識に影響しているんじゃないかな。おならしたいとかおなか減ったとか。
という訳で死の話での「自分」の定義は肉体も含めた意識。ということにしておきたいと思います。
で、まぁ、上で述べてる死んでも生きている。というのは自分が残した言葉や、子供や、他者への影響も自分という風に見なしている訳で、そうすると生きている間から、世界に自分が急襲されている訳で、死んでも世界の中で生き続ける。一体化するという考え方です。キリストやらブッタや徳川家康はなんて長生きなんだろうと。
ま、なんだか定義があやふやなところであやふやな話をして死の恐怖をごまかそう。って魂胆かもしれませんな。
コメントありがとうございます。
ブッタってあれです。
コウサギ。献身のシンボルですよね。
あの話。僕も心の中に残っています。
仙人に他の動物は食べ物を出せるのに、ウサギだけは何も出せなくて自ら火の中に。
あれも「愛」の物語なんでしょうね。
他の動物が存在するのがアジアンかな。とおもったり。
欧米だと、もっと自発的な愛を求める印象がありますが、和につながって、こっちのほうがいいな。と思ったり。
ブッタや火の鳥の話は、僕の考え方に大きく影響をあたえていると思います。
「聖なる予言」とか、わりとポピュラーですよね。
自分の意識も、世界の意識の一部という言葉が印象的でした。
個人的にですが、死について考えるとき「人間とは何か」という疑問も生まれてきます。
ヴィクトール・E・フランクルの「夜と霧」まだ読んでなければ、おすすめです。
生まれる前に帰っていくと考えれば死が少し怖くなくなる。
宇宙が始まる前は時間も空間もなかった。
死は個人的にその場所へと帰っていくのだと思う。
でも一つ願望を言えば、死において、すべてが明かされてほしい。
宇宙とは何か、とか、時間とは何だのかとか、ダークエネルギーとはとか。
我々が人間の体を通してしか知らなかった(相互作用が起こらなかった)事象以外のすべてを知りたい。
(意外とあの世はその今まで相互作用のなかったあたりにあったりして)
それを知らずに無になるというは余りに未練が残りすぎるから。
「自分」、って何なんだろうね??
うーん・・・今あまり難しい事に頭回らないけど(いつもかw)
要するに全てが情報、なんだよね?
記憶もそうだけど、細胞一つ一つにまでコード化されて刻まれていく、
意志とは関係なしに・・・
今ね、ストレスってものがどれほど健康や人間関係にまで影響を及ぼすのか、って本
読んでるよ。
興味深いんだわ~~。。
私も・・・病気とかはこわいけど、死、はあまりこわくないかも。。。
一番最初、おじいさんが倒れていたのをうさぎちゃんとくまが見つけて、、おじいさんに何か食べさせようとしたけど食べ物がなく、うさぎちゃんがおじいさんに自分を食べてもらおうと火の中に飛び込んだやつですよね?
そこの場面、泣きそうになりました