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八月一日

八朔 はっさく
 旧八月朔日を俗に八朔と云ふ 総て毎月朔日は之を吉日と名付けて賀すことは中華(もろこし)も我が国も同じで、殊に八月朔日は他の月にまさり、今日頼みとて人の許に物を送るなり。この風儀は後深草院の建長の頃より初めて、始めは田の実として早稲の米を折敷土器などに入れて人の許に遣わしけるとか。後嵯峨院いまだ若宮にて、御外戚源通方郷の亭にありし時、御近習の男女、御徒然を慰め奉らんため、この八朔の儀を密かに奉りける。後に御聖運開け給いて位に即(つき)ましましければ、之喜祥なりと云う。要するに秋の田殻の実を祝へるに田の実の朔日と云うと田実と馮(たのむ)と和訓も同じで、殻の新たなるを祈る祭の名なり。(晴明神社暦本より)
 八月一日(旧暦)。古く農家では、その年に取り入れた新しい稲などを、主家や知人などに送って祝い、同時に豊作祈願・予祝などの行事を行った。後、この風習が町家でも流行し、この日上下貴賎それぞれ贈り物をする習慣を生み、祝賀と親和を表すようになった。 田実(たのむ)の祝い(節供)、田の実・たのも節句ともいう。 「たのみ」とは、田の実、すなわち稲の実りのことを意味し、これを祝うことから起こったといわれる。転じて、君臣相頼むの意にかけて、主従の間の贈答を意味するようになった。 鎌倉後期より、武家社会でもこの風習が取り入れられ、江戸時代には、徳川家康の江戸入城が天正十八年八月昨日だったことから、幕府の重要な式日となった。諸大名や直参旗本は白帷子を着て登城し、将軍家へ祝辞を申し述べる行事が行われた。 また、農家では、「八朔の苦餅(八朔の泣き饅頭)」といって、この日は牡丹餅を食して祝った。この日以降、下男下女の夜なべが始まり、辛い日々が待ち受けていた。 また江戸の遊里、吉原では、この日は紋日(もんび)となっており、遊女たちがそろって白無垢の小袖を着て、客席へ出たり、花魁(おいらん)道中を行ったりした。元禄年間、遊女高橋が白無垢のまま病床から客席に出たことから始まったといわれる。 また京都祇園では、古くからのしきたりで、八朔には芸妓・舞妓らが盛装して、踊り・笛などのお師匠さんや出入りの茶屋などへ挨拶に回る。最後に、八朔は旧暦八月一日頃に吹く強風も言い、農家にとって厄日(三大厄日)として、収穫前の稲の大敵として、恐れられていた。(三大厄日は他に二百十日、二百二十日をいう。)(『現代こよみ読み解き事典』より)


若狭土御門殿名越祓大祭
また、今日、若狭土御門殿名越祓大祭が行われる。

福井県遠敷郡名田庄村(現・あおい町)の土御門神道本庁にて行われるもの。土御門神道は安倍晴明の末裔が作った神道説および流派。陰陽道の祭儀を残していると伝えられる。いつか、また見に行きたい。




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