「契約の龍」(87)
- カテゴリ:自作小説
- 2009/07/27 17:28:03
とはいえ、心配事があったのでは、すぐに寝つけるものでもない。横になってみても、眠気が訪れるまでには、かなりの時間を要した。だから、耳元で聞こえるクリスの声にたたき起こされたときは、寝入ってからそれほど時間が経ってはいないように思われた。
「…ぅわ!…な、何事っ?」
あわててとび起きて、どういう状況だったかを思い出す。
とりあえず息を整えてから、緩めたシャツを整える。上着を着ようとして、クリスの部屋に置きっぱなしだった事を思い出す。
一通りの準備が終わった頃、ためらいがちにドアを敲く音がした。助手の方だろう。
鍵を持ってドアの方に向かう。
念のためドアチェーンをしたままドアを開けると、予想通りの顔がそこにあった。
「とりあえず、処置は終わりました。引き続き様子見が必要ですが、何もなければこれ以上悪化することはないと思います。…患者にお会いになりますか?」
微妙に不吉な言い回しをするなあ、とは思ったが、突っ込んでいいような状況ではないので、うなずいて答えるにとどめる。
クリスの部屋に入っていくと、ちょうどクリスが医者を質問攻めにしているところだった。
「…じゃあ、海老や蟹に触るのも、もしかしたらダメ?」
「大丈夫、という保証は致しかねますね。個人差、というのもあるから。とにかく、蟹が原因だというなら、当分の間接触は避けた方がいい。了解?」
「当分の間、って、どれくらいでしょうか?一月とか、半年とか?」
「それも明言はできない。とにかく言えることは、「少なくともこの町に滞在中は、蟹に近寄るな」という事だけ」
「…先生。それは「この町では飲み食いするな」とか、「とっととこの町を出て行け」という意味に聞こえます」
「出て行け、だなどとは言いませんよ。ここの観光資源に所縁のある方には特に」
…では、「金瞳」は口止め、ということにしたんだな。
「…思ったよりも元気そうだな」
「アレクが、発熱に過敏に反応しすぎなんだ。私はセシリア程か弱くない」
「アレルギー反応にそれまでの健康さは関係ないよ。それに確かに危ないところではあったんだから」
「……はい」
医師の言葉には、妙にしおらしく反応する。
「でも、確かに心配症ではあるようだね。…さっきの剣幕と言ったら」
う…
「まあ、さしあたり、命の危険はなさそうだから、安静にして、様子を見るように」
…なぜ「安静に」を強調?
「いちゃつくのも、節度をもって、な」
笑いを含んだ声でそう言い、往診鞄の片付けを始める。
…あ、そうだ。
「あの…往診の費用は…?」
「明るくなったら、請求書を届けさせる。事務担当はもう寝てるからな。…この宿の客なら、踏み倒したりはしないだろ?」
笑いを噛み殺しながら帰り支度を終えた医師二人は、「お大事に」と言い残して部屋を出て行った。
…ところでこの界隈は、女性二人がこんな夜中に連れ立って歩いても安全なのだろうか?
「…少しは休めた?アレク」
クリスが手招きして、ベッド横の椅子に座るよう、手で指図する。
「まあ…いくらかは。それにしても、起こし方が荒っぽすぎる。耳の中で音を発生させるなんて…何事かと思った」
椅子に座りながら、耳を押さえてみせる。
「でも、確実にアレクだけ起こせる」
確実に、ね。
「気の毒な《ラピスラズリ》が、今頃どんな夢を見ているか知らないけど、いい夢だったら、起こさずにいてあげたいなあ、と思って」
「なんでそういう配慮が、俺に対してはできないかな?」
「配慮…っていうか…お詫びの先払い、みたいなものだし」
「…お詫び?」
「ジリアン大公を探させたのは…私の自分勝手な理由からなんだ。状況によっては、使わずに済むかもしれないけど…彼女を酷い事に使うつもりで」
「ひどい、って?海の底で魚のえさにするよりも?」
「…ひとによっては、そう感じるかもしれない。《ラピスラズリ》が、そう感じない、という保証は、ないし」
顔をそむけながら言う。
「それは…彼女でなければならない理由があるんだろう?…だったら、仕方がない。実質的な「最後のお別れ」ができる、ってことで、折り合ってもらおう」
「…実質的な?」
「そういう思惑があるのだったら、家族には知らせないつもりなんだろう?」
「アレクが、彼の立場なら、それで納得できる?」
「さあ……それは…」
そこで俺を引き合いに出されても困る。
「…ごめん。眠いせいで、ちょっと妙なこと口走ってる。…私はもう寝るから、アレクも、もう戻って、休んで?」
「…クリスが、ちゃんと眠るのを確認したら、ね。…おやすみ」
クリスの体に閉じ込められた者が蟹が嫌いなのかな。