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もともと内モンゴルと今のモンゴルは一つの国でした


もともと内モンゴルと今のモンゴルは一つの国でした。
第2次世界大戦後、旧ソビエトと中国共産党はその支配権を
旧ソビエトは今のモンゴル、中国共産党は内モンゴルを主張し、
それを実行しました。

旧ソ連圏のモンゴルは社会主義の道を取りますが、
ソ連崩壊後に民主化を取り戻します。

中国の支配下になった内モンゴルは侵略と酷い弾圧に苦しみます。
一節によるとモンゴル人は人口が10%になるまで抵抗し
更に中国軍は死んだモンゴル人を埋める事を許さなかった。
朽ちるまで其の死体を見せしめの野ざらしにしたそうです。

私は子供時代に噂でそれを聞いた時はぞっとしました。

詳しくは「墓標なき草原、内モンゴルにおける文化大革命虐殺」を
読んだ方が良いでしょう。

やっとの思いで日本に逃げれた僅か数人でそれを知らされても
日本も敗戦国、噂が流れるだけでした。

どんな思いで、どうして其の人達は日本へ来たのでしょう。
其処に旧満州を支配していた時代に内モンゴルと関係が在ったのです。
そして日本語を話せる人がいた。

日本なら助けてくれると数人で逃げて来ても誰も救いの手を
出せませんでした。

今のモンゴルへ逃げる人もいて、
次第に中国の恐ろしい弾圧は世界に広まりましたが、
どの国も救いの手を差し伸べませんでした。

その間にも虐殺はしつくされ続けられました。

『墓標なき草原(上)、内モンゴルにおける文化大革命虐殺』

内容「他に先がけて文革の火蓋が切られた内モンゴルでは、かつて日本時代に教育を受けた者たちが、「内モンゴル人民革命党」一派として粛清された。さらに階級闘争論によって、漢族による草原の開墾とモンゴル族の迫害が正当化され、家畜と遊牧地は奪われ、モンゴル人への殺害がエスカレートしていった。戦慄の悲劇を招いた内モンゴルの文革。その要因と拡大化の実態を、体験者の証言を軸に克明にたどる。対日協力者はなぜ民族分裂主義者に仕立てられたのか。 」

『墓標なき草原(下) 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録
内容

対日協力者が粛清されるや、革命聖地の延安出身のモンゴル人共産主義者までもが、「民族分裂主義者」として弾圧の標的となり、災厄はさらにその家族や係累へと及んだ。内モンゴルに大量の漢族移民が送り込まれ、粛清はより組織的かつ残忍なものとなり、草原は荒れた沙漠と化していく。やがて内モンゴルの文革は、一人のモンゴル人が「内通者」の罪人に仕立てられ結末を迎える。巨悪は闇に葬られ、恐怖の現実は忘却され、語ることすら許されない歴史。 」


私は日本人も、日本にいるモンゴル人も此の事実を知るべきだと思います。
そして中国に対して決して許しては行けない国なのだと言う自覚を持つべきだと思う。


★それだけではありません。
アラブ、アメリカ、メキシコを含む世界のモンゴロイドが中国を許さざる国として
しっかりと心に刻み込むべきだと思っています。


今黄砂が日本へ来ています。
正に当時内モンゴルだった所が砂漠化し、
そこからまるで中国の悪事を教えるがごとく
中国と闘ったモンゴル人の骨が砂に朽ち果てて日本を着く。

彼らの事を思うと日本人と胸が締め付けられます。
私達日本人がモンゴロイドの血だけでなく
責任もあるのです。





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