Nicotto Town


日々reco新聞


下書き用

自由な社会が実現できた時に、次に考えるのは

どうすればこの社会が持続できるか、そして
社会の構成員の全ての幸せの総和を最大に
するにはどの様にすれば良いか、である。

社会を維持していくためには、
権利の裏側である義務の観念が良く用いられる。
納税の義務、教育の義務、などだ。

しかし、このように権利と義務の二面性だけで
社会が保てるか、というとそうでない。

自由主義の歴史が長い、アメリカでは
経済活動の自由という考えから独占が進んだ
国の一つである。
自動車王、鉄道王、石油王など普通の市民が
持ち得ない冨を築き上げた。

この時に社会が期待するのは、冨の社会への
還元であった。成功者の名前の入った美術館、
病院が作られた。
彼らには、宗教的な動機や、
篤信的な考えもあるだろうが、
自分たちの税金だけを払えばいい、では
社会的に許されない世論が背景にある。

これを今まで社会学的に説明していない。

権利と義務という自由主義社会の統治手法に
もう一つ、権利の抑制的な行使と
進んで行う義務という概念が必要ではないか。

権利は他人と法律を害さない限り無限に認められる。
これが権利の姿である。
しかし権利を使用するときには人により
権利の大きさを異なって考えている。
自分の権利の最大限の場所は、他人の権利の
すぐ隣である。従って他人にとっては煩わしいし、
その隣人にとっては権利を侵害されたと考える
かもしれない。
それを解消するのが民事訴訟である。
民事訴訟を頻発することにより、自分の権利を
最大限に主張できるし、その権利を他人に
認めされることもできる。
けれど、訴訟つまりいさかいが続くということは
社会の持続性を危うくするし、社会の幸福の
総和を低くするものではないだろうか。

自由主義のその先に、「抑制的な権利の行使」
社会が見える。
専制君主による圧政は無いが、
市民が圧政の主になる現況の
「自分の権利を最大化する事が当たり前」
という考え方は社会的に欠陥である。

権利は持っている、そしてそれは自明である、
従って権利を持っているが使わない。
これが抑制的な権利の行使である。

災害時に制限が無く商品を買えることがわかって
いても、一人一本ずつ水を買う市民が、
この一例である。

権利を最大化し、他人の迷惑を考えないことは
他人にとって不幸なのだろうか。
それだけではない。
権利を最大化しようとする事が、精神の貧困となり
その人自身を害するのである。
欲求のまま生きることはできない。
「もっと食べたい、もっと欲しい、もっともっともっと」
資源には制限があるので、これはできない。
世界の資源が全て自分のものであったとしても、
満足できない。
(自分に見えないのを手に入れられないから
欲求の不満は残るのである)

自らの権利を抑制的に使うことを社会教育の
一環として学び、そして社会を維持するために
社会の成員自体を再教育する事が必要でないか。

義務のもう一つの考えは、義務という言葉に含まれる
果たさなければいけないもの、というものから、
「進んで義務を果たしたい」という社会参加意欲を
向上させる観念を育てる事である。
それだけではない。
義務を喜んで果たす事が個人の利益となるように
社会を変革することが必要である。
ステータスつまり社会的成功者に贈られる
明らかな報奨が金銭である必要があるだろうか。

戦国時代の茶器、感状などの使用方法と同様に
金銭でない珍しい物、権力を背景にした報奨を
用意すれば、社会の成員は喜んで義務を果たし
その対価を受取るだろう。
叙勲はその一例である。
















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