Nicotto Town


日々reco新聞


記事として正論すぎるので付け足すことの無い記事

http://sankei.jp.msn.com/world/news/120918/kor12091803050001-n1.htm

藤沢周平の時代小説に『市塵(しじん)』(上・下、講談社文庫)というのがある。江戸中期の儒学者、 
新井白石(1657~1725年)の半生を描いたもので、6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)に政治顧問と 
して仕えたころの話が小説の中心になっている。 

 江戸時代は武家政治だったから、政治エリートの白石は儒学者といっても武士である。 

 白石は貨幣制度や対外貿易改革など各種の幕政改革で知られるが、中でも面目躍如だったのは 
「朝鮮通信使」の受け入れに関する改革である。つまり、当時の朝鮮(韓国)との外交で政策転換を 
断行し、相手のいいなりにならない「彼我対等」の外交を展開したのだ。 

 「朝鮮通信使」とは朝鮮からの「信を通じる使い」を意味する。 

 両国関係は16世紀末、豊臣秀吉軍が朝鮮半島に攻め込んだ文禄・慶長の役(韓国では壬辰倭乱) 
で悪化したが、徳川時代になって関係改善のため朝鮮から使節団が派遣されるようになった。 

 それが朝鮮通信使で計12回やってきた。約500人もの大型使節団が対馬から九州を経て京・大坂、 
江戸まで、海路・陸路で往復し約半年間、日本に滞在した。この接待費は莫大(ばくだい)だった。 

 一行には歌舞音曲の芸人や書画漢詩の文人なども含まれていたから、好奇心が強く物見高い日本 
人は各地で使節団に群がった。今でいう「韓流ブーム」に似ている。 

 小説によると、白石は「過度のもてなし、あるいはあからさまな文化的崇拝の表明は、おのずから 
朝鮮側使節に奢(おご)りと文化的優越感をもたらし」ているとして「彼我対等、換言すれば釣り合い 
のとれた交際儀礼を確立すべきだ」と考えたという。 

 白石には基本的に、朝鮮通信使は日本に来ているのに、朝鮮側は日本からの使節団は受け入れよう 
としないことに不満があった。決して対等ではなかったのだ。そして白石は、彼らは「文禄・慶長の役」 
での日本に対する恨みを「文化」の誇示で晴らそうとしているとみていた。 

 対朝鮮外交の改革として歓迎行事の簡素化や経費節約のほか、幕府の将軍を朝鮮国王に対する 
「日本国王」として認めさせ、さらにお互い交換する国書(外交文書)の書き直しまで認めさせている。 


 最近の竹島問題をめぐる首相親書(国書)のトラブルを思わせるが、白石は当時、朝鮮側が「日本 
側からの返書の国書に儒教儀礼に反する文字が入っているので受け取れない」と拒否し書き直しを 
要求してきたことに対し、すでに日本側が受け取っていた朝鮮側の国書に同じ儀礼違反があることを 
指摘し「そういうことを言うなら、まず国に帰って国書を書き直して再度、持ってきてほしい」とつっぱね 
たのだ。 

 小説では「-これは、つまるところ…。文化の争いだ。彼の国の要求をいれれば、彼の国の文化に 
屈することになる」「国家の面目といったことには一顧もせず、単にその場しのぎの事なかれ主義」 
は許されない、と白石の心境が書かれている。 

 新井白石は、儒教文化の先輩である朝鮮側と一歩も引かず論争し負けないだけの、知識と経綸 
(けいりん)そして気迫があった。と同時に「もとよりその兵弱くしてわが国に敵すべからざること」 
(『朝鮮聘使後議』から)という“備え”への自信もあった。 




引用終了

ひとことつけたせば、
当時と今と全く変わっていない
韓国の人の人間性って、、
文化?DNA?





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