Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


首、耳、真珠、日射し、フェルメール。


すこし前、ちょうど一週間前になってしまうのですが、
8月31日、夏休み最後の日に、ようやく首と耳、二つのフェルメール作品に会いに
上野へいってきました。

そのときのことを…。

 「マウリッツハイス美術館展」(東京都美術館・二〇一二年六月三十日~九月十七日)と
「ベルリン国立美術館展」(国立西洋美術館・二〇一二年六月十三日~九月十七日)。

まず東京都美術館…。

《真珠の耳飾りの少女》又の名を《青いターバンの少女》、一六六五年頃。観るまでは、たぶん私は、光のあたりかたに感動するだろうと思った。実物をみると、いつも、輝きに魅了されてきたから。今回もそれは少しはあった。頭にまいたターバンから背中のほうにたれた黄色い布。たぶん、実際は位置からして、おかしいのかもしれないが、首から背中のほうで、布のひだがうっすらと光っている。その輝きに、気づいたことが、思いがけなさでもあり、心がぬくもった。そして、こちらを見るまなざしのずれ。黒目の光が両方の眼で位置が違うため、画面手前、左目のほうが、私たちにむけられ、画面奥の右目が、どちらかというと顔の正面方向に向けられてみえる。その間でたゆたって見える事が、さそいとなって謎めいているのだった。あるいはセザンヌのように、あらゆる角度からみた像を絵にもりこんでいるみたいに、少女のふりかえる動作のすべてを、一枚の絵の瞬間にもりこんであるのだろうとも思った。その瞬間には、少女の心象、それをみた画家の印象、すべてが混ざっている…。そうしてできた混成としてのトローニー(注: 特定の人物を描いたのではなく、自由に描いた肖像画のこと)ではなかったか。それはモネの風景画、風や光の動きすべてを、絵にいれようとした、あの瞬間にも通じる…。と様々な連鎖がわたしのなかで起こった。けれどもいちばん、なぜか心に響いてきたのは、少女の肌の質感だった。なぜそれが印象深かったのかわからない。けれどもそれが思いがけなさだった。少女の顔の肌が輝いている、というよりも、生々しい。実物をみるまで、気づき得ない柔らかさだった。頬の膨らみから目が離せない…、そうしてずっと観ていたかったが、名残惜しくその場を去った。
 (これを書いて数日後に気づいた。トローニーとしての少女、画家の造り出した少女と実際の少女の狭間にある彼女の頬が、白く、実在だといわんばかりに肉をもっているのだと、現実なのだと輝いていることに、たぶん感動したのだ。)

**

そして、国立西洋美術館。

 「第四章:絵画の黄金時代」にフェルメール《真珠の首飾りの少女》(一六六二~六五年頃)がある。こちらも多少は人だかりがあるけれど、待てばすぐに最前列で見える程度の混雑でしかない。うれしいというよりも、《真珠の耳飾りの少女》と同じフェルメール作品、しかも日本初上陸だというのに、なぜこれほど空いているのか、狐につままれたような気がしながら、前へ。
 画面右寄りに、画面左の窓の近くに枠だけ見える鏡を向いた横向きの黄色い服の少女。両手で首の真珠の首飾りについたリボンを持って、鏡に映して調節している。窓や鏡と少女の間は、白い壁と下方には、テーブルや椅子。テーブル上にはタイルがたてかけられ、化粧用のブラシなどが置いてある。テーブル半分と下は、黒っぽい布、もしかすると暗緑色のそれが、陰となり、暗がりを作っている。
 鏡に映して…と書いたけれど、鏡は枠だけしか見えないので、飾りのついた窓に向かっているだけのようにも見える。窓から少女までの間、白い壁と横向きの少女の黄色い服が、外からの明かりで、うっすらと輝いてみえる。ああ、この輝きだと又想うのだった。黄色い服は毛皮がついている。毛皮と黄色い服にあたった光と、ほのかにクリームを帯びた壁の光が、了解しあっているように、穏やかな…たとえば埃の匂いがわずかにする、寒い中での、日射しの温かみが、画面からあふれだすような。横向きの少女の半ば口をあけた、夢見るような表情も印象深い。窓を見ているのではないかと思うのは、多分この表情のせいだ。あるいは鏡を見ているのは、窓の外、もしかして船に乗っているかもしれない、誰か恋人のための装いの為、そんなふうに思ってしまう表情なのだ。鏡を見る眼に、恋人が映っている…。それも外光のせいなのだった。そして首近くまであげた両手が、首飾りを持つためだとはわかっているのだけれど、なにか驚きの仕草にも見えてしまうのだった。たとえば窓(鏡)に恋人の姿を夢想し、その夢想の彼が、少女になにかしかけてきた、それに対するジェスチャー…。柔らかな布、柔らかな日差し。

 実はどちらがより感動したかといえば《真珠の耳飾りの少女》のほうだったけれども、こちらの《真珠の首飾りの少女》は、やさしい温もりに満ちていて、心になじんだ。しかし、なんと両者の題名は似ているのだろう?

 美術館を出ると、入口で年配の婦人が美術館の関係者とおぼしき人に、フェルメールの…青い布を頭に巻いた…はこちらではないんですか? と聞いている。手慣れた風に、それはマウリッツハイス美術館展でと、東京都美術館までの道順を教えていた。幾度も聞かれているにちがいない。



 耳飾り(東京都美術館)は、ほんとに混んでました。入る迄、入場制限、
そして一列目で見るのに30分。
(私は一列目、並んでしまったので、最初にそれで見ました。そのあと二列目でじっくり。
一列目は、移動しながらみないといけません。せわしない。二列目は動かないでいいのです。一列目と殆ど、距離も変わらないし、二列目だけで十分でした)
ともかく、会期、けっこう終わりに近づいてしまいましたが、
みれてよかったです。

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2012/09/08 12:04
シーさん、コメントありがとうございます。
映画、そういえば、ミュージアムショップでDVDが売られていました。
確かに、あの映画の影響が大きいのかもしれません。
以前レンタルで見ましたけれど、映像もきれいで、
秀作でしたね。

>親しい人といつでも写真を撮る関係で生まれたスナップ写真みたいな印象を持っています。

ああ、そうした親密な関係、たしかに込められているような気がします。
何か了解しあったような。

始祖鳥、なんだかけなげなイメージが^^

縄文時代、土偶とか、土器、どうやって作っているのか、
あと、食べ物も、実は以前云われていたよりも、
実際は豊かな調理方法だったらしく…、興味しんしんです。

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2012/09/08 10:55
映画になったのも記憶に新しいから見に来る人多いのでしょうね。
私も混んだ美術館では二列目でじっくり派です。

>少女のふりかえる動作のすべてを、一枚の絵の瞬間にもりこんである
確かにふりかえる動作の前後を想像させる魅力があると思います。
親しい人といつでも写真を撮る関係で生まれたスナップ写真みたいな印象を持っています。

始祖鳥は魅力的な存在ですよね。あの羽でどうやって暮らしていたのか気になります^^
庶民の暮らしだと縄文時代も面白そうですね。
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2012/09/08 07:36
9月の作蔵さん、ありがとう~♪
そうなんです。すこしでもすいていることを願って、
平日に、開館してまもない時間にいったのに、やっぱり混んでました。
年配の人、主婦と思われる人たち(おしゃべりがけっこうウルサイ^^)、
学生…。そのほか、自由業、平日に来れる人たちと思われる方々…。
けれども、土日だと、もっと、すごいんだろうなあ、しょうがないよなと。
首飾りのほうは、ゆっくりみれましたし^^
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2012/09/07 21:41
ホントびっくりするくらい人居るときあるよね~w

ゆっくりみたいけどww



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