お金の色
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- 2012/07/31 21:54:23
売手と買手、これは平等です。
売りたくなければ売らなければいいし、買いたくなければ買わなければいい。
フリーマーケットでみる光景です。
買ってあげた人と、買ってもらった人これは対等ではありません。
買ってあげた人は買ってもらった人になにかを要求しますし、
買ってもらった人は、なにかを提供しなければならないでしょう。
子供に玩具を買ってあげる、かわりに子供はお手伝いをする。
飼い犬がいつもよりも上等な餌をもらえる代わりに、
なにかしら主人を喜ばす仕草をする。
つまり提供者側は「カネは出すが口も出す」、という態度をとれるのです。
受け取る側はそのリスクを考慮の上、受け取るものです。
お金の色というのはその表現であり、
買ってあげたものに見返りを求めないのはそれは権利の放棄と考えられますが、
買ってもらったほうが、義務を果たさないのは忘恩であり、
不義であり、場合によっては不法であり、犬に劣る存在ということです。
公立の学校は、公の意思に従います。公が戦争をしたい、
というなら戦争は素晴らしいという教育をするでしょう。
私学というのは、学ぶことに費用はかかるものの、
公から口を出されない、自主独立した存在です。
国旗の掲揚も、公の意思も関係ない、自由であります。
勿論、公に従うというのも自由であります。
公金が入るというのはその種のリスクがある、という事です。
公金というのは税金で、税金というのは国民が支払う
ものであり、国民が支持した公に従わないのなら、
公金を受け取るな、ということです。
公金を受け取ることは権利のように思う団体が
ありますが、公金を受け取る事によるリスクについて
よく考えているのでしょうか。
朝鮮学校の教育無償化、その条件は学習指導要領に従うこと、
つまり日本国が決めた方式の学習をしなさい、ということです。
お金はもらうが、従わない、はありえません。
また、橋本大阪市長が文楽の予算を削減する、ということに
反対の声があるようです。
色のついた、つまり「口をだされる」お金を受け取る事は
文化にとっては大きな負担になると思います。
自分は文化、特に古典文化については保存・維持される
べきものと思いますが、国や市からお金を受け取る意味に
ついて当事者の方々は理解されているのでしょうか。
4月頃、文楽の予算を削減する事がニュースになった時
130人の文化人が立ち上がったそうです。
http://donicchi.jp.msn.com/opinion/20120427_3.aspx
橋下大阪市長が財団法人「文楽協会」の補助金カットを表明したことで、
運営の危機にある文楽を守ろうと、季刊誌「上方芸能」の呼びかけに、
日本文学研究者の米コロンビア大学名誉教授、
ドナルド・キーンさんら約130人の文化人が応援メッセージを寄稿した。
引用終了
橋本市長が削減しようとした費用は5200万円の補助金の内
25%だそうです。25%の金額は1300万円
130人の「文化人」がお一人様年間10万円、月あたり8400円
負担していただければ、橋本市長のような文芸に
理解のない市長に言いたい放題言われなくても、
文化を守れるのです。
文化の保持に必要なのは、お金だけでは無いと、思います。
文化を味わう意欲、文化を楽しむ余力、そして感受性が
必要と思います。
特に、感受性については、ひとそれぞれ、と個性を強調
する向きもあるにはありますが、濃い味の食事をしていると
出汁の効いた料理が淡白に感じられるように、
薄口(感受性を鋭敏)に育て、然る後に個性を追い求めるように
すれば良いと思われます。
感受性を重視する教育を施せば、今ある文芸に税金を使うよりも
大きな効用が得られると予想します。
それにはできうる限り「本物」を体験させることが重要です。
「本物」こそは様々な文化の根底に共通して存在する普遍性なのです。
普遍性の断片に触れることができる子供が増えれば、
結果として、文楽は長生きし、文化は代々保たれるのです。
色のついたお金にできる事ではありません。
予算はゼロ
創意工夫で支援活動も何とかなるものだったりします(^^
私の場合はブレスレット作って渡してもお礼は一切受け取りません。
人に何か要求するのは江戸っ子の粋ではないと考えてるんですよね。
貧乏でも心が豊かであればいい。
私はそう思います。