Nicotto Town



器の大きさ(続編その1)

前の話に、非常に似ている話を二つ程、紹介しておきます。
ちなみに二人とも、野球界屈指の逸材といわれた選手です。

●イチローの話『イチローと土井正三』

http://plaza.rakuten.co.jp/musiccd0408/diary/200506010000/

より抜粋。



土井正三とはいったい誰なのか、またイチローと土井正三の間にどんな確執があるのか、野球をご存じない方のために少しご説明しよう。

土井正三は巨人軍のV9時代の二塁手だった。巧いバッティングと堅実な守備で定評があり、小柄な身体が軽快な、V9巨人の名脇役だった。当時セリーグを代表する豪腕投手だった江夏や平松や外木場が王・長嶋を抑えてほっとしているところで、土井にチョコンと打たれて負けたというケースがよくあったらしい。とにかく嫌らしいバッターだったみたいだ。

現役引退後は巨人軍のコーチを何回か勤め、日本テレビの解説者を経て、1991年から93年までの3年間、上田利治の後を継いでオリックスの監督に就任。戦績は3年とも3位だった。

そして監督2年目の1992年のシーズンに、イチローがドラフト4位で入団してきた。

土井正三監督は、イチローが独自に開発した、打席で右足を大きく振りスイングのタイミングを計る「振り子打法」を認めなかった。のちに振り子打法はイチローのトレードマークになるが、しかし土井正三はイチローに対し「その打ち方を変えなければ一軍では使わない」と命令し、そう命じられたイチローは「なら、使ってもらわなくてけっこうです」と自ら二軍行きを宣言し、土井監督に反旗を翻した。土井監督はそのままイチローを二軍に「飼い殺し」した。
イチローの成績は、1年目が打率2割5分3厘・本塁打0・打点5、2年目が1割8分8厘・本塁打1・打点3というものだった。

しかし仰木彬監督の就任によって状況は一変する。実力本位主義の仰木監督はイチローの才能を見抜き、1軍で1番バッターとしてチャンスを与え、また鈴木一朗をイチローという登録名に変えた。
その時あのパンチ佐藤も正式に登録名を「パンチ」に変えた。多くの野球ファンにとってイチローの存在を最初に知ったのは、おそらくパンチ佐藤と2人で改名の記者会見に出た時だと思う。その時はパンチ佐藤の方がはるかに有名な選手で、イチローはパンチと一緒に名前を変えた若い選手という印象しかなかった。
そして、その年にイチローはヒット数の日本記録を塗り替え、初の首位打者になった。その年のイチローの成績は、打率3割8分5厘・本塁打13・打点54。土井監督の陰湿な飼い殺しから解放され、イチローは化けた。その後イチローは、メジャーに行くまで7年連続して首位打者のタイトルを獲得したのだ。

イチローが活躍し始めてから、土井正三には「イチローを潰そうとした男」「イチローの才能がわからなかった男」という不名誉なレッテルが貼られ、イチローの活躍に反比例して土井正三の評判は地に堕ちていった。指導者としては最悪のパターンである。
その後土井正三は仲のいい長嶋に巨人のコーチとして呼ばれたことはあったが、球界の表舞台からは去っている。才能ある選手を開花させることができなかった指導者の悲惨な末路といえよう。




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