Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


水を廻って時間がぐるぐる


 桜の季節に探検したO公園へ。国分寺崖線の、ほぼ終点に近いところかもしれない。崖下に湧水。世田谷通りを挟んで自然林の崖地になっているが、すぐに団地が立ち並んでいる。
 紫陽花が見事に咲いていた。
 湧水のほうへ。崖下の、集めてつくった池に鯉。岸に茗荷が沢山。小学生の時に住んでいた家の隣に茗荷が沢山植わっていたなと思い出す。垣根を越えて私の家にまで生え出していたものだった。父は植物が好きだったからか、文句も言わず、それを楽しんですらいたものだった。
 蛇苺をひさびさにみる。毒があると教わったから(実際にはないらしい)、どこかわたしのなかで魔的な印象がある。やはり子供の頃、ヘビイチゴを見ては、食べてみたい衝動にかられたものだった。毒をたべたらどうなるのだろう? それは悪への誘いのようなものだった。
 池は細い川となる。しばらくそれを追って見る。せせらぎの音が強くなる。滝になっているのだろうか? 水源地が見えるのかもしれない…。期待がよぎった。残念。立ち入り禁止になってしまう。崖をのぼってみる。のぼったらわかるかもしれない…。この期待に満ちた心の動きも懐かしいものだった。それはなんだったろう? 上っても、わからなかった。のぼりきったら団地と幼稚園。すこしがっかり…。その途端思い出した。わたしは小さい頃から水が好きだった。池、川、海…。だがまわりには殆どそうしたものがなかった。だからよけいにあこがれたものだった。特に小学生の時の記憶。坂がある。なぜかのぼった坂のその向こうに、海のようなもの、池のようなもの、川が流れ…ているのだと思っていた。坂のむこうになにかしら水があると、想像し、思い描くのだった。しらない道をとおり、坂をみかけるたびに、だから、そのむこうにある水を追って、坂をのぼりたくなるのだった。のぼりつめたら、ひろがる水がみえるだろう…。崖上に向かう途中、感じた懐かしさはこれだったのだ。もっとも崖の途中で水源地を見つけようと思ってのことだったので、ちょっとニュアンスは違うのだけれど。
 そして、こうも思ったのだ。こうして子供の頃のことを思い出す…。それは今の瞬間の時間を二倍以上に生きることではなかったかと。おなじ行為、おなじ瞬間のまわりをぐるぐるまわる。それをひきのばした時間はとてつもなく長く、ほとんど永遠のようになるのではと。
 O公園から、野川を渡り、家のすぐ近くのZ公園へ。田んぼにはった水をまたみる。見ていると、ふわっともちあがりそうになる。とてつもなく幸福だった。家の近くのしらない家の庭で、ビワの実がたわわになっていた。ああ、昔住んでいた家の庭にもあったなとまた思い出す。隣が茗荷畑だった、あの家だ。時間がぐるぐる、ますます長くなってゆく。

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2012/06/14 15:29
nightさん、コメントありがとうです!
前に東京のど真ん中に住んでいたことが。皇居とかなにやら緑は多いのですが、車が多く、
洗濯物とか外に干すと、排気ガスで煤がついたようになってしまったり、
黒い鼻水がでたり、交通の便はよかったのですが、やっぱり住みにくかったです^^;
物価もたかかったですし。
今もいちおう東京なのですが、畑もありますし、鳥も多く、すみやすいです~。
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2012/06/14 10:13
やっぱり田舎はいいなぁ^^

田舎育ちの田舎者が言うんだから間違いない^^;
しかし、その観察力には脱帽です^^



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