Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


泉鏡花のたそがれという狭間へ向かう


泉鏡花をまた読みなおしはじめている。
シネマ歌舞伎『天守物語』で、主演の坂東玉三郎が、
冒頭で侍女たちが天守から釣りをするシーン、魚を釣っているのではない。白露をえさに秋草の花たちを釣り上げているのだけれど、まずこれを変だと思わずに受け入れる事ができない、鏡花の世界にはいってゆけない、ここで見る者を鏡花世界は選んでいるのだと、
そんなことを言っていた。
まるで美への入り口への番人のような侍女たちの花釣りだと、いたく納得したものだが、
鏡花作品は、同じ人物、つまり私のことだけれど、その心持も選ぶようだ。
つまり、彼の描く硬質な幻想、というか、夢と現実の狭間、日常と非日常の狭間、彼のいうところのたそがれ的な世界…、
<昼から夜に入る刹那の世界、光から暗へ入る刹那の境、そこにたそがれの世界があるのではありませんか。(中略) 夕ぐれとか、朝とか云ふ両極に近い感じの外に、たしかに、一種微妙な中間の世界があるとは、私の信仰です。〉
この狭間、つまり、
〈善から悪に移る刹那、悪から善に入る刹那、人間はその間に一種微妙な形象、心状を現じます。私はさう云ふたそがれ的な世界を主に描きたい。〉
(ともに泉鏡花:「たそがれの味」・明治41年3月)
というときの、狭間としてのたそがれ的世界をこちらが感受できる心持のときと、そうでないときがあるのだった。
感受できないときは、日常のほうにおそらく重心がかたむいている。現実とか。昼とかだろうか。
そういうときは、創作ももちろん、かんばしくない。狭間へむかえないから。そして鏡花が信仰であるという、真摯な創作への態度を、感受できないとき、それは、こちらが真摯さからはなれてしまっているということでもあるのだと…。
彼の世界へ入るには、私にとっては、それなりの覚悟がいるのだ。狭間へ向かうための。

このままではいけない。
『天守物語』やシネマ歌舞伎のほかの上映作品(『夜叉が池』『高野聖』)は、この間、読みなおしたので、
そのほかで特にすきだった『草迷宮』。
これをとっかかりにしようと思った。
だがひらいても、言葉がはいってこない。はずかしいはなしだ。
ひとつには明治にかかれたものなので、少しばかり、現代文とちがって、文意がわかりにくいというところもあるのだが、それだって、以前は、さして気にせずによんでいたのだ。
それで、途中、とばしながら読んでゆく。なんとなく筋がわかる程度に。だんだん日が傾いてゆく。きがつくと、ちゃんと読んでる。たそがれにはいれたのだ。で、とばしたところ、というか、最初から読みなおす。
まだ読んでいる途中だけれど、心持が、
たそがれを感じるところにもどってこれたのがうれしい。

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2012/05/27 04:47
takaさん、ありがとうございます^^
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2012/05/27 04:27
いいですね



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