哲学ぶるのって楽しいよね
- カテゴリ:日記
- 2011/08/27 07:35:49
今は遠い、短かった大学の日々。
私は人文系だったので、心理学や哲学の講義を多く取ってたのだけど、
そのうちのある講義を受けた時、すごく頭が混乱したことがあった。
て言うのをふと思い出したので、覚えてる限りで書き殴ってみる。
テーマは、「私」とはいったい何か? どこまでが「私」なのか?
チューリップは、球根の状態でも、新芽でも花が咲いていても枯れても「チューリップ」。
猫は、仔猫の時も大きくなっても太っても、脚が一本なくなっても死んでも「猫」。
私は、赤ん坊の時も少女時代も、大人になっても年老いても死んでも、
学校に通っていても無職になっても髪を染めても化粧をしても「私」。
その同一性。
どうして、全く異なるように見える球根と花の株を、同じものと認識するの?
球根はともかく、人間の場合のそれは、「心」だと言われたことがある。
心。私を認識する存在。それこそが、私を「私」たらしめる、と。
その延長か、「私」ということを考えるとき、体は単なる入れ物、みたいに言うことがある。
外の世界を認識し、感情を生み思考する、この意識こそが「私」だと。
しかしそれなら、眠っている間や、意識を失っている間の私は「私」ではないのか?
そうではなかろう。意識=心=私、と言うのは乱暴だと私は思う。
脳内の、ほんの一部の特定の活動のみが、「私」なのではないだろう。
意識と無意識、心と体、その全てが「私」だと感じる。
相手によって演じる役割。家族に、友人に、他人に対して着けるペルソナ。
無意識下の恐怖感や、鮮やかなイメージ、とりどりのクオリア、愛しい記憶たち。
けなげに鼓動を続ける心臓、キーボードの上をつたなく踊る指、地を踏みしめる両足。
「私」という個体。
でもそれなら、たとえば足を失った時――いや、そんなに大げさでなくていいや、
髪が抜ける、爪を切る、垢を落とす、排泄する、血を流す、それらの行為。
あるいは、ご飯を食べる、水を飲む、化粧水をつける、薬を飲む、それらの行為。
「私」は、日々自分の中に何かを取り入れ、何かを切り捨てて生きる。
それなら、どれが「私」なんだ? どこまでが「私」なんだ?
どの時点で物質は「私」になり、どの時点で「私」でないものになる?
私を構成する細胞が、すべて入れ替わってしまっても、私が「私」なのは何故だ?
咀嚼し飲み込んだご飯は、いつ「私」になる?
指を怪我して流れた血が、「私」でなくなったのはいつだ?
目に入れたコンタクトレンズは、顔に塗りたくった化粧は「私」の一部か?
膀胱や腸に溜まった老廃物は、耳に溜まった耳垢は、「私」の一部か?
もし他人の内臓を移植したら、その器官は「私」なのか、他人なのか?
もし事故で足を失ったら、「私」の一部が欠損してしまうのか?
薬の力で脳内物質を補完し、鬱状態を防いでいる私の心は、本当に「私」だけのものか?
思うに、「私」を点で捉えるからおかしいことになるんじゃないか、と、
大学に行けなくなって4年目の私は考えるようになった。
チューリップは、前の球根が育って別の球根に分かれて、
根を伸ばし、大地の栄養をもらって芽を出し、太陽の恵みを受けて成長し、やがて花開く。
あるいは、猫が盛ってオスとメスが交わり、メスの体内で仔が成長し、必死の思いで出産して、
仔猫は母猫のお乳を飲んですくすく育ち、よちよち歩きからやがては
虫や小動物を狙うハンターへ。そしてまた盛りがついて、相手を求める。
その過程。連綿と続く縦の流れ。無限に続く横の広がり。
その複雑な関係性の中に、自分のルーツと、過ごしてきた膨大な歴史を持って、
確かに存在するということそのものの連続性が、イコール同一性なのではないか。
両親の、そのまた両親の、と過去へ無限に続く、私の系譜。
血だけじゃない。例えば私の好きな小説家が影響を受けた、先輩の小説家がいれば、
その系譜だって、立派に私の思考のルーツだ。
私を育ててくれた人たち。家族。先生。友人。医師や心理士さん。
その他にも、私の生活を、見えないところで支えてくれる人たち。
食べ物を作ってくれた人。着るものを作ってくれた人。etc.etc.etc.
そういう関係性、連続性の中に、私は確かに存在する。
私は、広い世界にただいきなりぽつんと放り出された訳ではない。
私を世に送り出してくれた無数の人がいて、私が未来に繋ぐべき無数の人がいる。
関係性の総和。これこそが、「私」なのではないか。
うお、なんだこの文字数。
えらそうに拙論垂れてすみません。終わっときます。
基本的に物質ありきなのかなぁ
逆に 心ありきで考えて
な、な、な、んつって