時期遅れの七夕小説(2)
- カテゴリ:自作小説
- 2011/08/09 00:58:43
乞巧奠(きっこうでん)は技芸の上達を願う祭りだ。
天帝の怒りに触れて離れ離れになった夫婦の再会を願う祭りでもある。
だから、俺の育った田舎では、徴兵された夫の無事を祈る祭りでもあった。
笑いあいながら五色の糸で飾り付けをする女たちを見てそんな事をふと思う。
なぜ、そんな事を思い出したのか。田舎の事を思い出した事なんて、久しくなかったのに。
少し考えて、その理由らしきものに思い当たる。
流麗な女手の主が寄越した、謎の伝言の事が、どこかにひっかかっていたのだ。
あれは確か、冬の終わりごろだった。なのでかれこれ半年近く前になる。
きっと人違いだろう、と結論付けて忘れることにしたはずだったのだが……
しぶとく覚えていた自分に、思わず苦笑する。
「何かおかしな事でも?」
「ああ、いえ、……ただの思い出し笑いです」
「思い出し笑い?珍しいこともあるのね」
鄭家の女主が父親に似た、人をからかうような笑いを浮かべる。
「私だって思い出し笑いくらいしますよお嬢様」
若くして寡婦になった彼女は、昔から子ども扱いを殊の外嫌っていた。
ささやかな意趣返しは幼い子を抱えて五年もこの家を切り盛りしてきた彼女には何の痛痒も感じさせなくなっていたようだ。
「ですってよ、梨々」
「何か言ったぁ?」
不意に呼びかけられて、部屋の反対側で飾り付けをしていた彼女の娘が纏足の小さな足でよちよちとこちらにやってくる。
「呼んでいませんよ。母君の聞き違いです」
大人の話に混ざりたい少女をそうやっていなし、女主が返書をしたためるのを待つ。
彼女が文箱から硯を取り出して墨を擦りだすのを見て、「あ」と声を上げる。
「何か?」
女主が怪訝な表情で顔を上げる。
「いえ、何でもありません。……ちょっと思い出した事があったので」
「今日は変ですね。思い出し笑いをしたり、いきなり叫んだり。……雨にならなければよいのですが」
『文房四宝』という言葉がある。筆・墨・硯・紙、特にその名品を指す言葉だ。
『宝』とは言われているが、結局は消耗品で、どんなにありがたがっても使わなければその価値はないし、使えばなくなってしまう。
死んだ俺の親父は、その墨作り職人だった。
そして、
あの文を開けた時に感じた、妙な懐かしさ。あれは……
親父の墨の香りだ。
だがなぜ?
親父は特に名人という訳でもなかった。だからあの墨をありがたがって愛蔵するような者はなく、もうこの世に親父の仕事はなくなっていると思っていた。
もし、残っているとすれば……
「この近所で、代書をする女性をご存じありませんか?老若は問いませんが」
女主が返書をしたため終えるのを待ってそう訊ねる。
数人の名前が挙げられた中に、引っかかる名前があった。
「恨み言の一つも言われるかと思った」
「どうして?」
七日夜の月明かりの下、そこだけは少女の頃と変わらない大きな目が俺の方を見上げて言った。
「その……約束が守れなくて」
『七夕の約束』。思い出してみればそれは大したことのない約束だった。
墨を作るには、時間が掛かる。
油を燃やして煤を集め、膠や香料などと混ぜて練り固め、型に入れて乾燥させ、形を整えて出来上がり。
一言で説明すると、それだけなのだが、最後の『乾燥』が厄介だ。じっくりと時間をかけて乾燥させないと、ひびや割れが入る。乾燥している間の置き方が悪いと、形が歪む。そうなってしまうと、もう出荷はできない。
若い時分、そういった墨を使って近所の子供たちに手習いをしていた時期があった。
彼女はその頃の生徒の一人だった。しかも、かなり出来が良い方の。
歪んだり割れたりしたのじゃなくて、ちゃんとした墨が欲しいな、という愚痴に、なんとかしてやりたい、と思うほどに。
親父が死ぬ前の年の七夕に、まだ乾燥を終えていない生の墨を彼女に贈ったのは、そんな気持ちの表れだった、と思う。
乾燥させるにあたっての注意を事細かに教え、巧く仕上げる事ができたら、来年はちゃんとしたのを上げよう、と。
親父が亡くなったのは、翌年の冬で、長兄が工房を継いだ。兄は親父が守り続けた材料の調合を変えてしまったので、親父の墨はそこで途絶えた。
俺はそれを機にうちを出た。兄とはあまり折り合いが良い、とは言えなかったからだ。
そのせいで、約束を守る事はできなかったのだ。
故郷を出てしばらくの間はその事で胸が痛んだが、やがてそれも薄れてしまった。
「そりゃ、あの時は『約束が違う』と思いましたよ。でもこの歳になると、約束を違えられる事なんて、ねえ?」
言外に苦労の多い人生だったと匂わせる。
際立って人目を引く、という容貌ではない。
だがその話し方は落ち着いていて、深い知性を感じさせる。
「じゃあ、どうしてあんな……いや、それ以前に、どうして俺の事が?」