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前漢(西漢)・廟制

高祖は父・劉太公を祀る廟を作る際、同族全国諸侯王にも劉太公の廟を作る事を命じた。
これが以後の定式となり、各郡国にそれぞれ劉氏の廟が作られる事になった。
これを郡国廟と呼ぶ。
本来、親の祭祀を行うことが許されるのは大宗(本家)だけ、
漢の場合は皇帝の系譜、であり小宗(分家)はこれを祀れない事になっていた。
ましてや臣下が皇帝の祖先を祀る郡国廟は本来の礼制から大きく外れたものであった。
高祖は諸侯王や天下万民に「我らは一つの家族である」との意識を持たせようとした。
その後、儒教の勢力が増すと礼制から外れた郡国廟は問題となり、
元帝のB.C.40年に韋玄成ら建議により郡国廟は廃止された。
儒教の勢力拡大と共に問題とされたのが七廟の制である。
本来の礼制では天子の祖先を祀る廟は七までに決まっていた。
しかし元帝の時点で九になっており、どれを廃止するかで議論が起こった。
この議論は紛糾を続け、最終的に平帝期に王莽によって高祖・文帝・武帝の三者は功績が大なので不変、それに加えて現皇帝の四代前まで(宣帝・元帝・成帝・哀帝)とすることに決められた。

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