スーさんは菩薩に成られた
- カテゴリ:人生
- 2011/04/26 21:52:01
あんまり宗教的なことは言いたくない。
って、前回も書いたけれど、仏教的表現を借りる。
田中好子さんは「法身/ほっしん」に成られた。
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ちょっと俗っぽい話から。
田中好子さんの告別式の模様を伝える読売オンラインの記事に、僕は無性に腹が立った。
スーさんの言葉を引き
【「映画にもっと出たかった、テレビでもっと演じたかった」と無念さをにじませ…】
と書いてあった。
「無念」じゃない!
そう僕は思った。
調べてみると、無念という言葉は、二つ意味があった。
仏教用語、仏語として、「妄念が無い」「無心」といった意味で、無我の境地などを示す。
日常的には、「残念」「悔しい」といった、意味。
さらに残念を調べると、やり残したことがあったり、心残りなことだ。
やはり、スーさんは無念じゃないと、僕は思う。
スーさんの思いは、病気を治したい、生きてゆきたい、それが本心だ。
できなかったことを悔しがっているのとは、似て非なるもの。
ましてや、死してなお「被災された方のお役に立ちたい」とおっしゃられた。
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仏画に「来迎図/らいごうず」というものがある。
阿弥陀如来が、多くの菩薩とともに、雲に乗って死者を迎えに降りてくる姿だ。
極楽浄土へ導かれると言う。
スーさんの最後の言葉が流れている時、斎場の空が曇ったそうだ。
スーさんは如来に導かれた。
極楽で、人は仏に成る。
「ほとけ」と一言で言っても、宗旨などで意味が異なるそうだが、仏も、修行による悟りの深さによって格がある。
悟りを開いたのが如来。
それに対して、この世の救済のために、あえて俗世にとどまり修行するのが、菩薩。
一般に観音様と言われるが、種類も呼び名も多くあるそうだ。
その中の一つに「救世菩薩/くせぼさつ」がある。
俗世の救済をするために修行しているから「救世」を名にしているという。
悟りを得ながら、それでも救済のために俗世に残り修行する菩薩さま。
スーさんは、きっと
救世菩薩になられた